大阪城公園もまた花の盛りでした。横を流れるのは第二寝屋川という名前の川。

 

外堀の石垣を見る。かなりの高さと長さがあり、これ、江戸城より凄いじゃん、と思う。江戸城だと竹橋辺りから九段下あたりまで、それなりの規模の石垣が残ってますが、ここまでの高さと長さは無いと思うなあ。

ちなみに大阪城の外堀、今では分断されて切れ切れになってますが、江戸期にはお城をぐるっと取り囲む一続きの水路だったようです。



外堀に面した石垣。結構適当な野積みに見えますが、空襲やらなにやらで崩れて組み直してる疑惑があるため、往時のままなのかは不明です。



青屋門という変わった名前の門から城内に入ります。ここの石垣はかなりきっちり組まれてますが、昭和44年に結構適当な復元建設をやってしまった門らしいので、これまたどこまで往時の状態なのかは判りませぬ。そもそもこの一帯は大戦までは日本最大級の軍の砲兵工廠、そして第四師団の駐屯地だったため、まともな遺構はほとんど残って無いようです。

ちなみ大阪の砲兵工廠は現在の大阪城公園の東側まで広がる広大なもので、戦後かなりの間、事実上放棄された状態にありました。
その一帯に住み着き生計を立てたのがいわゆるアパッチ族ですね。アパッチ野球軍のアパッチはこっちじゃないかと個人的には推測。かつての山谷、そしてあいりん地区など足元にも及ばない日本の中の異界地域だったらしいのですが、恐ろしいほど資料が無いのです。梁 石日さんが一時そこに居た、というう話もあるんですが、小説一本書いた後は沈黙を守ってるようですし。、

今とはなっては香港の九龍城の資料がほとんど無いのに似てるのかもしれませぬ(写真は多いけど)。ちなみに筆者は香港返還前に一度、九龍城の前まで行きながら、なんでこんなに歯医者だらけなのこのビル、とビビッて撤収した経験あり(というか最初の香港訪問で、九龍城の存在も知らなかった。あれがそうだったのか、と知ったのは21世紀に入ってから)。ちなみに当時のカイタック空港への着陸を見るにもいい場所だったのでした。



その門をくぐると、内堀と石垣、さらには復元天守閣が見えてきます。

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