さて、三ノ宮駅の北西にある生田神社にやって来ました。

神戸のというか日本最古参の歴史を誇る神社の一つでしょう。
元々は砂子山(現在の布引一帯)にあったのが恐らく9世紀ごろに現在地に移転、その後も何度か水害や地震、さらには火災や戦災で失われています。現在の社殿は戦後の再建ですが(恐らく二度目の再建)、その後、1995年の大震災で全壊、そこからまた再建復興という、何度もエライ目にあっては蘇ってきた、タフな神社でもあります。

ちなみに神戸という地名は一帯がこの神社の寺社領だったからです。よって本来は寺社領にある家や集落を意味する、「かんべ」が正しい発音であり、戦国期までは発音が残っていたのですが、いつのまにか「こうべ」になってしまいました。江戸期以前の古地図に見られる旧称、紺部(かんべ)はこの音だけ拾って適当な漢字を当てたものです(地名に明確な漢字がある方が珍しく、文盲だった皆さんが音だけを伝えた結果、変な当て字になる例は日本中にある。例えば三河物語で彦ちゃんが地名に当て字ばかり使ってるのは後世の人間としては迷惑千万だが本人の責任ではない。だれも正しい漢字の地名なんて知らなかったのだ)。

神戸も横浜と同じく、元は寒村に過ぎなかったのですが、諸外国に対する兵庫の開港を避けたかった幕府により(理由はややこしいので省略)隣の神戸村が開港され、これをきっかけに日本を代表する都市が誕生するわけです。

ちなみに大都市に近く、幕末の開港で産まれた新しい街、そして兵庫、神奈川という古くからの港を開港すると見せかけて、その隣村で開港した、といった共通点が横浜と神戸にはあります。どことなくオシャレな街なのも共通点といえば共通点でしょう(ただしオシャレ度では神戸が圧勝である)。

あと、どうでもいいことですが、司馬遼太郎さんの著書、「街道をゆく」の神戸編の記述は間違いと勘違いが散見されるので、あまり参考にしない方がいいです(笑)。参考までに読んでみたのですが、ちょっと厳しいものがありにけり。
司馬さんの場合、手持ちの資料を全て検証抜きで丸のみにしちゃう、という変なクセがあるので要注意なのです。

ただし、それでも私認定で司馬さんは日本が生んだ偉大な頭脳のベスト5に入ります。
ちなみに一位はぶっちぎりで夏目漱石。この人のシェークスピアの記述とか、今見ても凄いくらい資料を調べてる上に、あの知性です。知識と知性がこれほど高い領域で両立した極めて珍しい例でしょう。しかもこの人、漢文、英文ともに学者級の読解力があり、数学(特に幾何学)もかなり理解してましたからね(だから寺田寅彦と話が合ったのだ)。



ここも桜が見事でした。



拝殿。
ここは1995年の大震災で柱が倒れて完全に潰れたのですが、その年の秋までには再建されてます。屋根から上は元からあったものを再利用してるようですが、詳細は不明。

さて、ここに来た理由は神社そのものにも興味があったから、ですが、最大の目的は…



こちら。生田の森がここにある、と案内板にあって驚いたからです。

平家の本拠地、福原京の東端付近に当たるのがこの一帯であり、かつては生田の森と呼ばれてました。そしてここが源平合戦における激戦地の一つとなったのです。

一度は九州まで落ち延びながら、源氏の内紛(頼朝 VS 義仲)に乗じてかつての本拠地、福原(兵庫)まで戻って来た平家の軍勢がここに布陣。対して源義経&範頼(のりより)の源氏軍が京より進出してきて激突したのが、この生田の森周辺でした(生田口)。

両軍の主力がぶつかり合って戦闘は膠着状態に陥るのですが、源義経による平家の陣地背後への奇襲、いわゆる「ひよどり越えの逆落とし」により源氏が圧勝を収めます。ただしこの辺りは「平家物語」の脚色が強く、実際はそこまで激戦では無かったでしょう。そもそも五万の軍勢なんて、当時の源氏軍に集められたとは思えませんし、それだけの兵が布陣する空間もありませぬ。

ちなみに生田の森は「太平記」にも登場し、足利尊氏の水軍に追い込まれた新田義貞が陣を敷いたのがこことされてます。そしてここで敗北した義貞は、以後まともな反撃も出来ないまま、京を追われて越前に落ち延びて討ち取られる事になるのです。

すなわち源平合戦、建武の乱、二つの大きな歴史上の戦いにおける、決定的な勝敗を記録する戦場となったのが生田の森なのです。日本史に置けるアルデンヌの森みたいなもんですから、これは見なくては、という話ですね。



で案内板に沿って来てみると、「生田の森」は神社の裏手の小さな緑地でした。

…あれま。まあロマンですかね、こういった話は。

そういえば平家物語にも太平記にも神社の裏で戦ったなんて話は無かったように記憶しますし、帰宅後確認した江戸期の名所案内にも生田神社に生田の森がある、という記述は見られませんでした。いつからここに生田の森が造られたのかは謎ですが、まあ歴史ロマンでしょう。

おそらく当時の一帯は生田川の流域で、暴れ川だったゆえに広大な低湿地となっていて、故に攻めにくい場所として決戦地に選ばれたんじゃないかなあ、と個人的には推測してますが、根拠は無し。

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