姉川の南岸、小谷城から約5qの位置にあるのが戦国期から江戸期にかけて日本を代表する鉄砲の産地になった国友村で、現在もその地名と集落は残って居ます。琵琶湖岸は古くから鍛冶が盛んな一帯で、このため、鋼の鍛錬と成型が肝となる鉄砲作りでは大坂の堺と並んで有力な生産地となりました。国友の他には安土の南、蒲生氏郷の地元である日野も有力な鉄砲の産地として知られてます。 国友に伝わる伝承だと1544年(天文13年)に、将軍 足利義晴(後で見るように京都では無く琵琶湖岸の坂本を中心に活動した足利幕府の将軍)の依頼で鉄砲製造を開始した、とされているそうな。ただしこれは種子島に鉄砲が伝来した翌年であり、さすがに無理があると思われます(1542年伝来説でも二年しか無い)。とりあえず、戦国期が始まるころには既に鉄砲製造は始まっていた、くらいに考えるべきでしょう。 そこにあるのがこの国友鉄砲の里資料館。 1987年に開館した、火縄銃に関しては日本を代表する資料館なので、今回、立ち寄ってみました。ちなみに民営です。ついでに言えばパンフレットだと名称は「国友鉄砲ミュージアム」となっており、Web上のサイトでもこちらになっておりました。ものすごく頭悪そうな中学生英語なので、普通に「資料館」で統一されては、というのは余計なお世話でしょうか。ついでに英語表記はGun museum。これもあまり聞かない英語ですし、一部に雷管式銃がありますけど、基本的な展示は火縄銃の展示なのでTanegashimaでよくないですか。恐らく、こっちの方がおお、タネガシマがあるのか、と注意を惹くと思いますし。 2021年現在、入館料は300円でした。中に入るとまず、国友の案内動画を見せられます。写真はその映像室にあった展示。 おお、ずらりと鉄砲が並んでおるわい、と思ったんですが、残念ながらほとんど全て江戸期のもの。個人的に期待していた戦国期の鉄砲はありませんでした。まあそれでも興味深い展示が多いので見に来る価値はあると思います。 奥のデカい鉄砲は幕末期に国友で造られた雷管発火のパーカッションロック銃。西洋から入って来た小銃、ゲベール銃を参考に造られたもの(Geweer/オランダ語で小銃の事。ただしドイツ語読みで、オランダ語の発音だとクァビアー、といった感じで全く違う。ちなみにオランダ語では小銃全体を指す単語なのでライフリングのある銃もGeweerである。日本語のゲーベル銃はライフリングの無いマスケット銃、中でも雷管式の銃の意味で使われてるのが一般的なので注意。さらに言えばゲーベル銃というのはピストル拳銃、マシンガン機関銃みたいな二重表記だがすでに定着してしまったのでここでもそれに従う)。 国友でも幕末期には火縄銃ではなく、雷管式発火(叩き潰すか微量の熱を与えると発火する管で着火する)の鉄砲を造っていたようです。ただし最後まで銃口内にライフルを彫ることができず、その結果、鉄砲の郷の歴史は文明開化と共に終わることになります。 この雷管式銃、かなり大きく見えるのはケツの銃床(ストック)がデカいからで、これはヨーロッパ式に肩に当てて衝撃を受ける形状でしょう。それだけ反動が大きく、射程距離も長かったわけです。ただしこれは発火方式の問題では無く、二百年間進化が無かった日本の鉄砲の使用火薬が少なかったのだと思います。 ちなみに手前の銃が従来の日本の鉄砲ですが、これ、よく見れば火縄の挟みこみ部分が妙なの、判るでしょうか。 火バサミに火縄を挟む構造では無く火皿の凹部を埋めるような凸部が先端に付いてるのです。これは幕末期に流行った火縄銃を雷管発火に改造した銃ですね。火皿に発火薬の代わりに雷管を挟んで叩くだけなので比較的簡単に改造できるため、結構な数が造られたとされます。このため火皿を覆う誤発火防止用の火蓋は健在で、雷管式ながら「火蓋を切って」撃つ小銃になっています。 これは意外に海外でも知られていて、たまにサムライ改造銃、といった感じで紹介されてるのを見ます。 こちらは従来の小さな銃底のままですから、やはり発火式の問題では無く、単に日本の鉄砲が使用する火薬量の問題だったのだと思います。 明治に入って鉄砲は大量生産の重工業化したため、国友では花火にその活路を見出したようです。この辺りは鋼の大量生産の国産化、という問題と合わせていろいろ興味深いのですが、本題から外れるので、今回は触れず。ちなみに法螺貝は…よく判らず。 鉄砲(当記事では日本の滑腔銃の意味でこの用語を使う)の展示は主に二階にあります。さっそく行って見ませう。 |