もうちょっと北側から。
左端に見えてる岬のような小山が新羅埼で、その横にあるのが合戦当時からあったであろう余呉の町。
ここは風土記に登場してますから、八世紀には既にあった集落だと思われます。新羅の名がある以上、ここは朝鮮半島からの渡来人が開拓した土地でしょう。日本海の敦賀からこの一帯には多いもので、ここには新羅神社の跡も残ってます。恐らく湖の北側の平野部に田を開いたのかと。

そのような土地だからか、この湖には世界標準の羽衣伝説、天女が降りてきて服盗まれて帰れなくなっちゃう伝説があります。これは近江国風土記(散逸した風土記だが他の文書に引用される形で一部が残ってる)に出て来てますから、丹後の風土記に出てくる羽衣伝説と並び、文書の形で確認できる最古のものの一つです。ちなみにそちらでは集落の名が「与呉」で、湖の名は「伊香の小江(いがのおうみ)」となってます。
よご、という聞きなれぬ名も古朝鮮語に何かあるような気がしますが詳細は判りませぬ。

ちなみに帝皇編年記に引用されている近江風土記によれば、白鳥が八羽降りてきてその末の娘が衣を捕られて帰還不能に陥って羽衣ドロボーと結婚して子を成す、でもって最後は取り返してバイバイ、という典型的な白鳥伝説となっています。
ところが現地の観光会館にあった解説板によると似ても似つかぬ話に変わってしまっており、これ、どこから出て来た話?と思ったり。ネットでサイトを見るとちゃんと帝皇編年記からの引用がされてるんですけどね。



さらにその先で東側の湖岸を見る。左に向け、なだらかに下る丘陵部が例の大岩山で、右手(南側)に中川清秀の砦が、左手(北側)に高山右近の砦がありました。…この二人を並べて配置した秀吉、何を考えてるザマス、と思っちゃうところですが、何かの罠だったのかなあ。
でもって右側、一気に標高が高くなった先が賤ケ岳ですね。



この湖はずっと湖岸沿いに一周でき、さらに湖岸は緑地として整備されてるため、車で走っていてもとても楽しいです。いいなあ。
標識でだいたいの現在位置も確認できるのですが、これによると一周6.8q、散歩にもいい距離です。初夏とかに来てみたいものです。



湖面に注目。
この謎の水上構造物は賤ケ岳山頂からも見えており、なんだろうと思ってガイドさんに聞いたら深層曝気装置と言う耳慣れないものでした。先にも触れたように余呉湖には流入河川がありませぬ。流出も限られるため対流が少なく水中が酸素不足になりやすいそうな。よってアオコの発生に繋がりやすいので、それを防ぐために水中に空気を送り込む装置なのだとか(空気を送り込む圧力で対流も起こしてるらしい)。

そういや上野の不忍池も流入、流出入の河川が無いため(明治初期位まで流入する川はあった。現在は人工の流入路がある)、同じような装置が付けられてます。…が、これだけの天然の湖に必要あるの?ホントに?という気がしなくもなくもなく…。



さらにその先で賤ケ岳を見る。ほとんど砂浜が無い湖でした、余呉湖。

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