これだけの美しい土地ですが、かつてあった国民宿舎は廃業、現在は観光施設らしいものは観光会館とビジターセンターがあるのみ。
ビジターセンターと言う頭の悪そうなカタカナ英語は死ぬほどキライなので、今回は観光会館の方に来てみる。この横で写生大会のような集会が開かれて居りましたが、こういった風景を線で捕らえるって意味が無いよ、と思う。空間を線で捕らえるって面で捕らえるより百倍は難しいのですよ。そんじょそこらの人がやって出来る事ではありませぬ。余計なお世話でしょうが。



その横の水路に架かる橋。イイ感じです。



必要以上に真っすぐなのを見れば判るように人工水路で、その名も余呉湖導水路。

琵琶湖の横の小さい湖じゃん、という印象の余呉湖ですが個人的にはかなり不思議な湖でもあります。
まず流入、流出河川が無いこと。この水路は灌漑用の取水水路ですが(余呉湖から北に流れ出る)、ここから分離する高田川と合わせ、これ以外、余呉湖から流れ出る河川はありませぬ。そして高田川もまた江戸期に造られた灌漑水路なのです。すなわち、本来は余呉湖から流れ出る川は一本も無かった事になります(ちなみに今は隧道式(トンネル)の放水路も造られている)。
そして流入河川は未だに一つもありませぬ。すなわち全て湧水で補われている事になります。この規模の湖が、と思ってしまう所。

そして水面がかなり高い。琵琶湖は最初に述べたように山間の湖であり、あの巨大な湖面は標高で約84mもあります。海上から見たら高層ビルの上にあるんですよ、琵琶湖。ところがそのすぐ横の余呉湖はさらに凄くて水面は海抜132m、すぐ横の琵琶湖より50mも高いのです。こうなるとその成立は琵琶湖とは完全に独立したものである、と思われなんでこんな場所に、と思わざるを得ませぬ。断層かなあ、と思いますがよく判らず。

ちなみにこの放水路と取水口のダムの完成が1960年、それ以前の高田川の水量は微々たるもの、そこに加えて周囲の人間活動も少ないと来れば、湖底の堆積物の研究に理想の状況じゃないの、と思って調べて見たら、やはりそういった研究の対象になっているようです。近くに断層もあるので、キチンと知れべれば水月湖並みの資料が眠ってそうな気もします。ただし最大水深は13mしかないので一万年くらいの堆積が限度だと思いますが…



こちらが観光会館。昭和の匂いがかすかに残る鉄筋コンクリート造の建物でした。となりに地元の農産物売り場みたいな建物もあたのですが閉鎖中。食堂もありましたが、ここではとりあえず我慢。



湖の直ぐ北を北陸本線が走っております。実は賤ケ岳山頂からも列車を見てたんですが、あれ、その時見たのもあの特急だったような。

というか北陸本線入ってる特急って何?関西から敦賀に抜けるなら京都から琵琶湖西岸の湖西線で抜けるはず、と思って帰宅後調べたら名古屋から金沢を結ぶ「しらさぎ」だと知る。ええ、名古屋から金沢を結ぶ特急ってあるのね、と初めて知りました。
ついでにこの特急、ほぼ一時間に一本と言うかなりの本数が走っており、名古屋と金沢の間にそんなに需要があるのねと、再度驚く。ちなみに北陸本線、日中は一時間に二本しか列車が無いのですが、内一本は常にこの「しらさぎ」というなかなか凄いダイヤでした。

ただし改めて考えてみれば京都から敦賀方面に抜ける湖西線は戦後の開通ですから、もともと国際港であった敦賀に抜けるのは東海道本線の米原経由が本来の姿なのか。

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