少し高度を上げると、さらに眺望が良くなる。
琵琶湖北部の島、竹生島が見えてます。無人島ですが、港とお寺やらがあり、どうやって運営してるのかと思ったら基本は通いで、夜は宿直を残してるみたい。怖いと思うぞ、その泊まりの人…

ちなみに一部で有名な琵琶湖の謎の湖底遺跡があるのもあの辺り。
ついでに安土城からここでまで信長がお参りに来て、そのまま速攻で日帰りしたら城の女性たちが仕事放り出して遊びに出かけているのを発見、そういったズルや誤魔化しが死ぬほどキライな信長がこれらを皆殺しにしてしまった事件の場所でもあります。

参考までに陸路だと秀吉の地元、長浜城まで約30qを移動してから船で10qほどの距離、約40kmであり普通に考えれば日帰りは微妙な距離。とにかくお馬さんを速く走らせる事で有名な信長ですが、さすがに往復60qをそれは無理、よっておそらく魔王専用の魔法を使ったのだろうと長年思っておりました。
が、今回来て見て、ああ船を使えばいいんだと気が付いた。湖上なら直線距離で30kmほどであり、信長大好きの高速船ならおそらく片道一時間ちょっとです。余裕で日帰りコースなんですね。



頂上が見えてきました。周囲がハゲヤマなのは観光の眺望確保のためだと思われます。ただし一帯では2018年ごろ崖崩れがあって、リフトも一時営業を休止していたようですが。



さらに良く琵琶湖が見えて来る。これは絶景だなと思う。…いや、ホントに凄いなここ。なんでこんなに無名なの、この景勝地が。



やや逆光気味ながら南の平野部を見る。

赤い矢印の先が浅井家の本拠地、小谷城があった小谷山、その北側、ちょっと低い場所にあったのが同盟関係にあった朝倉義景が応援に来るとき使っていた大獄城。両者の南側、右手にあるのが織田側の拠点となる砦があった、虎御前山。

さらに織田軍と対浅井・朝倉の最終決戦になった天正元(1573)年8月の小谷城攻めでは北側の山田山に信長は本陣を構え、敵を挟み撃ちにしてます(虎御前山には嫡男の信忠が入った)。これは大獄城の方が低くて攻めやすいから、という理由と同時に、ガッツとやる気の塊であった浅井長政に対し(しかも嫁は信長の妹である。これも強いだろう)、どっかノホホンとしていた義景の方が堕としやすいと見たんだろうなあ、と個人的には思っております。
「朝倉始末記」を見ると、この時期の義景はほぼ部下の信頼を失って敵だらけのポテチンと言われてますからね。

でもってこの時、朝倉義景はこの一帯、木之本から余呉湖にかけても兵を置いてました。賤ケ岳にも朝倉軍が入ったのかははっきりしないのですが地元に帰るための重要な地点ですから、簡易な砦くらいは置いてあり、これを後に秀吉が修復して再利用した可能性は高いと思っております。

ちなみにこの最終決戦では朝倉側から織田家へ、バンバン裏切りと投降が相次ぎ、もうダメ、と判断した朝倉義景は折からの豪雨を利用して大獄城からの遁走を計ります。ところが敵は魔王信長ですから、この脱出計画を完全に先読みしてました。というか、この時の信ちゃんは異常なハイテンションのまま戦っており、嵐の中で大獄城を強襲、ほぼ陥落寸前にまでしていたのです。ただし相手もトンズラのプロ、義景ですから、まんまと逃げられてしまいます。

これは嵐の中でも元気に城攻めやっちゃう信長が、きっと義景も同じく嵐の中で行動を起こすと正確に予測してたのに対し、織田軍の諸将はこんな嵐の夜に戦やるのはウチの大将ぐらいだよね、いやマジで、とタカをくくっていた結果でした。信長は異常ハッスル状態だったのに対し、義景もまた異常ビビリ状態で、嵐の中を迷わず元気に脱出してしまったのです。

その嵐の夜に大興奮で寝れなかった信長さんが「うんもう、信長待ちきれない!」と大将自ら先陣切って直属部隊のみで朝倉の大獄城に夜襲を掛けて撃破、一方の義景はその嵐を利用して遁走を計ります。でもってこれを「ダメよ、もう信長逃がさないんだから!」と木之本一帯まで夜通し追撃したのです。が、逃げるにかけては信長以上の才能を持つ義景はこれを振り切って、その本拠地である一之谷に落ち延びます。もっとも結局、そこで一族郎党、全滅させられるのですが。

一方、朝になって目が覚めてみたら大将は居なくなってるわ、敵の朝倉の陣地はもぬけの殻だわで、驚愕して追って来た織田軍の武将たちを、「んんもう、信長、信じらんない、お前たちってばホントにお馬鹿さん!」と叱責したのが画面左手の地蔵山の辺り(ギリギリ見えてません)となります。

柴田も秀吉もこの追撃戦に参加してますから、戦場としての一帯の地理勘はあったわけです。特に秀吉は地元でもありますしね。

ついでに、この時、林、柴田と並ぶ織田家の譜代の古参で、家内でいい位置にあっていい気になってた佐久間信盛が「そう言うけどさあ、俺たちって結構凄いよね、信ちゃん言い過ぎ」と反論して信長の怒りにガソリンを投入したわけです。これが後の佐久間追放の理由の一つとされました。ただしこの辺りは大義名分のための言いがかりで、信長は邪魔な古参の宿老どもを一掃したかっただけなんですが。実際、佐久間と同時に同じ古参の宿老、林も追放されてます。ただし同じ古参の譜代でも柴田だけは平身低頭して生き延びたのですが、北陸に飛ばされます。

ついでに到着直前にもちょっと見た右手の尾根筋の低い場所も確認しておいてください。この西側、画面右が例の飯浦港で、今ではトンネルで突破してしまいますが、かつては低い鞍部を峠が通っていたはず。

と、ここまで書いて写真一枚でこの情報量、どこに行くのだこの旅行記と一抹の不安を感じる筆者。



頂上部は公園のように整備されてますが、これは合戦時に築かれた砦跡です。堀切(空堀)や土塁も残っており、思った以上に本格的な城砦のようです。よくまあ、こんな場所にと思います。標高421mですぜ。この規模なら数百人から千人前後は入れたはず。

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