とりあえずJRの比叡山坂本駅を超えてさらに湖岸方向に向かい、県道の高島大津線を南下します。その途中の路上にあった桔梗紋。なるほどここは明智の地元なのだな、と思う。



でもって実は坂本城の本丸がどこにあったかは長年謎でした。それが1994年の琵琶湖大渇水の時、1m以上水位が下がって出現した湖底に本丸跡と思われる石垣の基礎部分が見つかり、初めてその位置が特定されたのです。ところがその本丸跡は現状、民間の所有となっており、入る事はできませぬ。まあ遺構は何も残って無いので、入れてもあまり意味はないんですけどね。



その代わり、本丸跡地と思われる場所の直ぐ南に坂本城跡公園という施設が造られていました。まあ、ここも特に遺構とかは無いんですけど。



公園内には光秀の石像が建ってるのですが、さすがにもうちょっと…と思わなくもない出来でございました。ヤング最澄は出来良かったのにね。ロボ光秀?

ただしここに地元の解説ボランティアの方が居て、いろんなお話を聞かせてもらう。でもって、ここの方の知識も凄まじいまでのもので、賤ケ岳の時と同じように驚嘆する。

ここで聞いたお話の中で興味深かったのは本願寺一向宗の中興の祖であり、戦国期の政治的な宗教へ至る道を開いた蓮如に関するものでした。蓮如は比叡山の延暦寺から仏敵指定を受けていたのですが、敵の敵は味方、とばかりに三井寺こと園城寺の庇護を受けてこの一帯で布教しており、その結果、延暦寺の麓の坂本の町は意外に一向宗が多かったそうな。

当然、一向宗徒と延暦寺は犬猿の仲なのですが、これまた敵の敵は友達という事で、反信長で共闘していた可能性があり、この一帯に浅井・朝倉連合が立てこもったのは、この支援もあったのでは、というお話でした。ちなみに信長はほぼ間違いなく、延暦寺の焼き討ちと一緒に坂本の町も焼いてるのですが、それは八つ当たりではなく、この一向宗を狙ったものだった可能性がありそうです。



その公園から琵琶湖岸に出れました。実は今回、これだけ琵琶湖周辺を移動しながら、まともな浜辺に出るのは初めてです。

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