やけに立派な建物だと思ったら、これが三井寺の金堂、本堂でした。ちなみに国宝。 これは新築で建てられたもので、1599(慶長四)年に秀吉の奥様、すでに未亡人だった北政所の寄進によるそうな。家康と北政所が一緒に建物を寄進しているお寺ってのも凄いですね。やはり両者の関係は良好だったと考えていいのでしょう。 ついでに江戸期、少なくとも家光時代の前の建築はこういった上品なものが多いのに注意。家光以降の江戸期の建物は、日光東照宮に代表される地獄の霊柩車的な、ある意味で明以降の馬鹿みたいに派手な中国王朝的な建物が主体になって行きます。あの突然の変化はなんなんだろう、とずっと考えてるのですが、未だに判らず。秀吉の影響か、と思ってもいたんですが、このお寺を見る限り、彼の死後でもこんな感じの建物が主なので、あり得ないようです。 ここも土台などに大幅に手が入ってますが、基本的な保存、復元状態は良好でした。というか、彦根城がヒド過ぎるんだよな、と改めて思う。 その本殿をグルっと一周して裏に回ると何か小さな建物が。これも重要文化財でした。でもってこれ、本殿を拝殿代わりにしてる構造ですから、何か重要なモノだろうと思って覗いてみると… なんだこれ。というか寺院の奥にしめ縄のある岩って完全に神仏混合じゃないの。驚いて建物に貼り付けてあった解説板を見たのですが、全く何言ってるのか判らず(笑)。書いた人間もよく判って無いだろ、これ、という典型的な文章でした。 幸いにして別の解説が横にあり、それによると天智、天武、持統の三人の天皇の産湯に使われた井戸だそうで、よって「三井寺」と呼ばれるようになった、との事。まあ怪しいですけどね(笑)。 そもそも天智天皇(中大兄皇子)は近江の大津宮に遷都した張本人ですから、無理がありますし、遷都から6年後に即位した(でもって速攻で大津宮を廃都とした)天武がここからの水で産湯としたなら、六歳で軍を率いて壬申の乱の主役となった事になります。最後の持統天皇も年齢的に無理があるでしょう。 ちなみに閼伽(あか)井屋と呼ばれている辺りからしても、何か別の由来がある気がします(閼伽は仏前に備える水の事)。というか閼伽の井戸にしめ縄付けちゃったら、ユダヤ教のラビが十字架持ってるくらいメチャクチャな設定なんですけど… その金堂は中に入れました。当然入るでしょう、人として。 |