そこから城跡沿いに大手門側へ向かう道がある。これも埋め立て後に城跡周辺に造られた道なんだろうな、と思ってたんですよ。だって城壁の周りに道を造ったら、堀を超えて来た敵がここで一休みできるわ、石垣超えの足場を造れるわでいい事ないですからね。



しばらく歩いていると、石垣が続く一帯に。ちょっと低く感じるけど、当時はもっと下までむき出しだったのだろう、とか思いながら歩いてると、奥に石垣が切れてる場所が見える。え?ええええええええええええええええ?



はい、階段まであり90度曲がって細くなってるこの構造は虎口でですね。ええええええええええええええええええええええ、マジで。

先の古地図を見れば判るように、道の向こうの田んぼは当時はお堀で、そのお堀を渡る道は大手道しかありませぬ。すなわち、ここに出入口がある、という事は、

■お堀沿いに城の周囲をぐるっと回る道が最初からあった。すなわちこのお堀はまともな防御構造になってない。

■そんでもってあちこちに、こういった入り口があった。少なくとも発掘された大手門の西側だけでも四か所はある。

城の周り、入り口だらけじゃねえか(笑)。安土城の大手門はこのすぐ先ですから裏口とかではありませぬ。江戸城、大阪城、そして彦根城の感覚だと、いくつかの門以外はすべて壁と櫓で囲み、その横に堀を掘って侵入を防ぐ構造にするはず。ところがこの安土城はお堀沿いにわざわざ通路(武者走り)を造り、さらに大手門の西側周辺位は無数の入り口があった、という事です。おそらく発掘が進んでいない反対側、東側も同様だったはず。…侵入し放題じゃん。俺をニンジャ魂の持ち主と知っての狼藉か。

…これ、徳川家のパラノイア系戦闘城砦とは全く逆、来るものはウェルカム状態の城砦であり、その設計思想が根本的に違うでしょう。武田家の躅ヶ崎館がノンキすぎるのだ、と思ってましたが、戦国末期まではこんなもので、むしろあれが平均的な城なのかも。となると、この後の20年で一気に戦闘城砦化が進むのか。この辺りは攻めるも守るも大好きの秀吉による大阪城が転機?謎が多いですね、戦国期の城も。何しろまともな資料が無いから自称専門家が好き勝手言って林立乱立してる世界ですし。



その先にあった、別の入り口。おそらくこの上に門があり、奥には屋敷が建っていたはずで、普通に考えれば武家屋敷の一つでしょう。ただしここは、水上の土塁の上にあった大手門の左右に位置するので、陸地側の出入り口、通用口、といった存在だった可能性もあり。ただし大手門からは約50mの距離があり、構造物としては完全に別物。そして私はそんな構造を持つ城を他に知りませぬ。

こういった無数の入り口と建物を城壁外、お堀の横に建てる、というのは江戸期の城砦からすると異常です。どうもこの城、全体を囲む城壁すら無かった可能性もあるような。我々は現存する江戸期のお城の姿に惑わされ過ぎなのではないか、という気がしてきました。

城壁(無かった可能性もあるが)の外部、お堀の横に無数の入り口があり、しかもそのお堀のフチには人が行き来できる通路があった、という事です。そんな城があったのか、というのが今回の驚き第一号でした。江戸期以降の常識で考えちゃだめでしょう、この城。



そこから駐車場と売店が見えました。あの手前にかつての大手通があり、そのまま城内に突入できるはずです。入場券売り場もそこでしょう。ちなみこの石垣から向こう側に見える高台までの間も当時は水の底でした。例の古地図を見れば判るように、大手通りは堀の中を縦断する土手として造られています。

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