例の古地図で見るとこんな感じ。例の下街道には蓮池橋が、北側の城内に入る場所には百々(どど)橋が掛かっていました。現在、蓮池橋はただのコンクリートの橋になってしまって跡形も無いですが、北の百々橋はちょっと古い橋が残ってるようなのです。これは見てみたい、と思うのが人情でございましょう。信長公記にも何度か安土城の入り口の一つとして登場する橋ですからね。



到着。これが百々橋でした。当然、安土城側からの撮影です。

ただしく大正期から昭和にかけてのコンクリート橋に見えますので、そこまで古いものでは無いでしょう。それでも戦前なら本格的な埋め立ては進んでないので、往時のこの水路の幅の推測は出来ます(この一帯は織田信長時代から陸地で江戸期以降の干拓の影響を受けていない)。



その水路は現在はコンクリートでガチガチに固められてますが、左右の道路や家の位置からして、昔からそれほど幅があったようには思えませぬ。おそらく、当時も今よりは多少広い程度だった、と思われ、大型船が城下に入って来るのは無理でしょう。となると織田軍団は琵琶湖水軍をどこに置いたのだろう、という疑問が残りますが、正直、よく判りませぬ。



そして百々橋を渡った先の階段の上にあるのが、信長が生前に建てたお寺にして、江戸期以降、この城跡を管理して来た總見(そうけん)寺です。江戸時代初期に京都の寺から住職を招いたため、禅宗の臨済宗となりましたが、本来は信長が自らの個人崇拝のために、安土城の隣の山の上に建てたお寺でした。イエスズ会のフロイスは、そんな事やったから本能寺で死ぬことになったのよ、と述べてますな。

ちなみに江戸期の内にすったもんだがあったのですが、最終的に織田家の末裔に当たる人が住職に就くようになっています。現在の安土城の一帯はこのお寺の私有地でもあります。間接的とはいえ、安土城は当時の城主の末裔が未だに全敷地を所有してる、珍しい城跡でもあるわけです。

總見寺は周囲の寺院から建物を移築しまくって建てられたため、現存する三重塔、仁王門は信長の時代より古い室町期の物だと見られています。両者、重要文化財です。

でもって、こちらからの入り口は使用禁止で、大手門跡の受付に回ってね、との看板が。適当な石段はほぼ往時のままだと思われ、ちょっと登って見たかったんですけどね。ただし、總見寺跡は見学可能なので、後ほど、この石段のすぐ上まで見学に来れました。



その横には会勝寺というお寺があり。水路の東側、安土城内に建ってますが、例の古地図には無い寺であり、恐らく江戸期の建築です。ただし境内にある神社には平安末期の薬師如来像があるそうな。この辺りの無茶苦茶ぶりは明治のお馬鹿さん政策、廃仏毀釈の影響を受けなかった、という事です。なので、ちょっと覗いて見たかったのですが、時間が無いので、今回は見送りに。

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