とりあえず、一帯は公園として整備されてましたが…。
安土のセミナリヨは信長から城下の広大な一等地を受け取り、そこに三階建ての巨大な建物を建設したものでした。城の本丸、天守閣などを除くと城下で最大の建物であり、当時、多くの見学者でにぎわった、安土の街を発展させたがっていた信長はこの立派な建物を特に喜んだとされています。

とりあえず、この建物に関して、フロイスが述べるところによると、

■貧乏人の庶民を相手にしても仕方ないので、金も権力もある連中がすむ山中の城内に建てたかったが土地が無かった。でも貧乏くさい庶民どもが住む街中にイエスズ会の建物建てるなんて死んでもイヤ。

■すると城と街の間にあった湖の入り江が埋め立てられて新たな宅地となった。周囲は武家屋敷だったが、その一角がイエスズ会に与えられた。さらに信長が周囲の屋敷を取り壊させ、セミナリヨの土地に加えさせた。すなわちベラボーに広い。

■二階の壁の窓は一方が街を見下ろし、一方は田園地帯を見下ろしていた。

■セミナリヨは信長の邸宅(本丸では無いと思う。おそらく麓の下屋敷だろう)から見える近所にあった。


さらに「信長公記」の巻十三にも記述があり、それによると

■安土御構(城)への南、新道の北に江を掘らせられ、田を埋めさせ、伴天連に御屋敷下さる。

とあり、入り江を埋めたのではなく、新たに入り江を掘って、そこで出た土で田を埋めてイエスズ会に与えた事になってますが、新道、すなわち下街道の北、と述べています。ところがこの公園の場所は、下街道の南側です。

以上の条件からして、ここはちょっと違うと思いますよ…。あまりに適当過ぎません、これ?
ちなみに三方が重厚な石垣で囲まれていた事、城の建物(本丸、二の丸、天守閣か?)以外では唯一、瓦屋根の使用が許可されていた、といった特徴も述べられているので、これらの遺物を地道に探すのが正解かと。

ついでに、安土城下の武家屋敷は瓦屋根ではない、という辺りも興味深い話です。当時の城って、ホントに謎が多いんですよ。ちなみに屋根瓦の話は次回のちょっとした伏線にもなってるので覚えておいてください。



そこから細い路地を通って北上、現在もほぼ当時のままの場所を走っている下街道を目指します。



出ました。歴史ある街道の中でも、ほぼ当時の道なりを維持してる貴重な下街道です。これを東に向かって安土城跡を目指します。



途中で小川と言うか用水路を渡ると、その先はかつて水の底だった一帯です。でもって地図を見るとこの北側にちょっと興味深いモノがあるようなので、一度下街道を外れてそちらに向かいましょう。ちなみに正面が安土城跡の丘陵で、右側の山頂部にかつて天守閣がありました。わずか六年の間ですけどね。



これがその小川と言うか用水路。例の古地図で見ると城の西側に細い水路があり、それが堀&内湖と琵琶湖を繋いでますが、おそらくその跡です。多少、位置が動いてる可能性はありますが、ここから東はかつては水の底だった、と思っていいでしょう。

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