■安土城の基礎知識 さて、いよいよ信長さんのシンデレラ城こと安土城跡に突入します。湖と山と馬と天下布武が大好きな信長さんらしい城であり1576(天正4)年の旧正月から建設を開始、以後、本能寺の変に至るまでの僅か約6年間、織田家の総司令部となるのがこのお城です。今見てもすげえ、と思われるこの安土城の基礎知識編を、最初にまとめてしまいましょう。 ちなみにフロイスの「日本史」によると、本能寺の変のあと、明智軍が押し寄せて略奪を働いたが、秀吉の接近を知って急ぎ離脱したため、城は無傷だったとか。ところがフロイスから明確にお馬鹿さん呼ばわりされてる信長の次男、織田信雄が理由もなく火を放ってしまい、城の上部と市街地が灰になった、とされています。 ただし、あくまで城の上部であり、おそらく山上の天守閣と本丸辺りまでが燃えただけで、城内の建造物の多くは焼け残ったはずです。実際、明智光秀を撃った後、秀吉はここに入ってますし、後に柴田勝家との決戦となった賤ケ岳の戦いの時も、一時的に安土城に滞在してます。さらに織田信雄に織田家の家督を継がせた後、安土城に入れてますし(すぐにいいように追い出されるが)、まだ幼児ながら織田家の嫡男である三法師(信忠の長男、信長の孫)も安土城に置いてます。よって本能寺の変の後も、しばらくは城としての機能は維持していた、と見るべきでしょう。 まず最初に、現在の安土城跡の姿を、もはや御馴染み国土地理院様の航空写真で確認しましょう。 出典:国土地理院ウェブサイトより 必要な部分をトリミング、各種文字情報を追加しています。 御覧のように田畑の中にある丘陵地が城跡です。 その下を通過する信長が造らせた新街道、長浜から草津に至る下街道の位置を白線で示してあります。これは現在でもほぼ完全に残っていますが、城の南東側(画面右下)の経路は変更されてしまってます。現状の道路は写真のように城跡沿いに沿って走っていますが、本来は白線のように琵琶湖線(東海道線)側まで直進し、そこからカクッと曲がりながら北上する経路でした。 上の地図で赤の×印の辺りから見た安土城跡。普通に田園地区にある丘陵に見えます。 こういった地形を見ると、ウフフフ、信ちゃんてば、意外に平凡な築城センス、と思っちゃう所ですが、それは間違い。これは江戸期から戦後にかけて、一帯にあった湿地と琵琶湖に繋がる内湖を埋め立てまくってしまった結果で(築城段階で信長も一部埋め立てたが)、当時はここは水上に突き出た岬であり、それどころかほとんど独立した島のような土地でした。 出典: 国土地理院ウェブサイトより 必要な部分をトリミング 終戦直後の1946(昭和21)年3月に米軍が撮影した安土城跡一帯の航空写真。御覧のように安土城のあった土地は水上に飛び出た岬なのです。築城時は西側、写真左側まで琵琶湖の水面であり、完全に半島、それどころかほとんど島ような状態でした。安土城は江戸期の干拓と、昭和の土木御馬鹿の皆さんの埋め立てによって、現在のような環境にされてしまったのだ、というのを見て置いてください。これを理解しないと、この城の本質が判りませぬ。 国立国会図書館デジタルコレクションから転載 クリックすると高解像度版が開きます。 安土城跡に関しては、本能寺の変から105年後の1687年、貞享(じょうきょう)四年に書かれた城跡図が残っており、これによってかなり詳細にその往時の構造を知ることが可能です。御覧のように岬どころかほとんど島のような土地であり、水上の要塞でした。 ただし防御機構そのものは極めて貧弱で、彦根城を見た後だと、これでいいの?と不安になってしまうほどのお粗末さです。まず南側の堀を兼ねる内湖(入り江)のど真ん中を横断する形で(笑)、例の信長が造らせた新街道、下街道が通っています。すなわち広大な堀として防御に利用せず、むしろ不便だよね、とばかりにその真ん中に街道を通してしまったのです。マジか。そしてそこから北上して城内に入る大手通りには途中、大手門が一つあるだけで、あとは真っすぐな階段で一気に本丸の下に出れてしまいます。その途中に堀も橋も何もありませぬ。 ちなみに「信長公記」の巻十一、天正六年正月の項に、城下の火事の話が出てきます。織田家の宿舎から出火したのですが、その原因調査の過程で家臣団の多くが故郷の尾張に家族を置いたままだった事が判明、信長が激怒した、と。この時、怒りに燃える信長は岐阜城に居た嫡男の信忠に命じ、尾張の武家屋敷を全て焼いてしまわせ、その家族を強制的に安土に移住させました。ただし信長の怒りはこれでも収まらず、関係者に重労働の罰を与えました。それが「御構への南江の内に新道を築かせられ」であり、すなわち城の南の入り江に新たに道を造らされた、とあるのがおそらくこの道ではないかな、と個人的には推測してます。 さらにその下街道は図の右下で城の一部に接しています。すなわち周囲の沼というか堀はほとんど無意味です。 ここは前回見た隣のより高い山、観音寺城跡まで繋がる尾根を切断して人工的に堀った堀切であり、徳川要塞、彦根城以降の感覚だと水没させるか、少なくとも空堀にするところでしょう。ところが信ちゃんはこの堀切に新街道を通してしまうのです。マジか。 背後の山と重なって判りにくいですが、左側の矢印の下が、Uの字型にくりぬかれた堀切です。これは信ちゃんが安土城を建てた時に造られたものからほぼ変わって無いと思われます。ここから西(左)側が安土城、東(右)側が、例の観音寺城があった高い山に続く尾根。ここで切断する事で、尾根沿いに攻め込まれる事を防いでるのですが、そこに街道を通しちゃったら意味ないじゃん。 「むう、なんという難攻不落の水城よ。信長め、敵ながらあっぱれなり」「いえ、お館様、城の石垣のすぐ下を街道が通ってます」「…マジで?」といった世界ですね。一瞬、罠かと思ってしまいますが、この奥には何もありませぬ。 そもそも、これから見て行くように、防御という点については、ほぼ天然ボケとしか思えないほど、この城は甘いのです。まあ、同時代の城はほとんど残っておらず(建築時期なら犬山城が近いが江戸期に大きく手が入ってる)、大阪城も秀吉時代の姿はよく判らんので、戦闘要塞パラノイアの徳川家が覇権を握る以前の城は、意外にこんなものだったのかもしれませぬ。 ちなみにこの一帯は当時は水の底であり、下街道は右側の矢印の下を走ってる琵琶湖線の辺りまで直進後、大きく左に曲がってあの堀切に入るようになっていました。 当然、城下町をこの近所に造るのは不可能で、南西部の下街道沿いの地区、現在まで続く安土駅周辺の古い町並み一帯にそれがあったかと思われます。といった辺りを理解してもらった上で、さっそく安土城ににじり寄って参りましょう。 |