間もなく私の乗る普通列車がやって来る。首都圏では見ない223系でした。安土駅に新快速は止まらないので普通列車。ちなみに現在12時30分過ぎ。この後は安土城、さらには瀬田の唐橋見学も予定してるのでちょっと焦りつつあります。 回転可能な対面式座席ですが、関西旅行で天王寺から乗ったのとは座席の色が違いました。同じ車両でも路線によって使い分けているんでしょうか。 途中で貨物列車とすれ違う。かなり長い車両でした。この後も何度か見かけたので、東海道線はなんだかんだで物流の大動脈なんだな、と思う。 彦根から約15分、窓の外に山が迫ってきたら、そろそろ安土です。 トンネルと抜けると、そこは安土城跡。 真ん中の山が安土城の天守閣があった場所、左手に繋がる尾根筋までが城の一部です。信長は小牧城以来、岐阜城、そしてこの安土城ととにかく山の上が大好きな人でした。ちなみに安土城の天守閣は標高198mの位置にありますが、何度も説明してるように琵琶湖自体が84mほどあるので、地上からだと100m程度の高さです。まあ、それでも高層ビル並みの高さですが。 ちなみに車が走ってるのが見えてますが、あれが信長が整備させた街道、いわゆる朝鮮人街道です。ただし現在は安土城横の山を突破して北上してますが、本来ならこの琵琶湖線(東海道線)辺りまでグルっと回り込んでいたはず。ついでに手前の田んぼとかはかつては水の底でした。 現在の朝鮮人街道という名は江戸期に朝鮮通信使が利用した事にちなみます。江戸期の通信使は瀬戸内海経由で大阪まで来た後、陸路で琵琶湖岸を抜け、すなわち中山道経由で関ケ原を抜け、そこからは東海道経由で江戸に向かいました。 この街道の当時の名前が不明、としましたが、1577(天正5)年6月に出た「安土山下町中掟書」の中に、「往還之商人、上海道相留之、上下共 至当町可寄宿」、商人は上街道(海道)を通ってるけどさ、下街道と合わせて安土城下を宿場としないと怒るよ、と書かれてます。上街道は恐らく古くからある中山道を指すと思われるので、「下街道」がその名称だった可能性が高いでしょう。さらに次回に紹介する江戸時代初期の地図にも下街道とあるので、この記事ではこの名称を採用します。 |