改めて見ると、この辺りの内堀はかなりの幅があります。これが埋め立てられなかったのは幸いだったと思います。

ちなみに朝に見た、現在空堀になってる外堀ですが、あれが埋め立てられたのは滋賀県のマラリア対策のためだった、と西表島の旅行記を書いてる途中、偶然に知りました。戦後、南方から多くの引き上げ者が帰還し日本中で一時的にマラリアが大流行するのですが、ほとんどが終戦の翌年、1946(昭和21)年に最大にピークを迎えた後に終息し、1948(昭和23)年までにほとんど発生しなくなります。

ところが、滋賀県だけは1949(昭和24)年に至るまで、夏なるとマラリアの大発生が確認され、やや下火になる1950年までこれが続きました。
ただしこれは南方マラリアではなく、寒さに強い原虫による日本固有のマラリアで、古くは瘧(おこり)などと呼ばれていた熱病でした。どうも南方マラリア対策として各県の調査を行ったところ、とっくに根絶したと思われていたこの日本型のマラリアが滋賀県に多く残って居る事が判明したようです(日本衛生学雑誌 64巻1号戦後占領期におけるマラリア流行の2類型 田中 誠二, 杉田 聡, 丸井 英二 による)。

そのマラリア対策として、蚊の発生源と見なされた彦根城の外堀埋め立てが行われたのです。でもって、かつての松原内湖は戦前にほぼ埋め垂れられてしまっていたのですが、城の周囲の水辺だけは戦後まで残されていました。これを埋め立てしまったのが、このマラリア対策事業だったのです。先に見た黒門の先のみっともない埋め立て地区は、このマラリア対策として埋め立てられた一帯となります。

人の命に係わる疫病の発生とその対策は重要ですが、この埋め立ては1953(昭和28)年、とっくの昔に流行が終わった後に行われている事、当時の資料を見ても果たしてこの一帯が蚊の発生源と見なしていいかは疑問な事など、典型的な昭和のお馬鹿さん土木工事だと判断していいかと思われます。ちなみに埋め立てを後押しする発言をした専門家が阪大の森下薫で、この人は人間としても研究者としてもクズと言っていい野口英世の大ファンでもありました。野口英世関係者にはホントにロクなのが居ないと思います。

ちなみに、この辺りの経緯に関しては立命館大学が発行してる京都歴史災害研究 第12号に「マラリア防疫を目的とした濠の埋め立てによる歴史的景観の改変  彦根城の遺構「濠」をめぐる行政と地域住民の論争に着目して 米島 万有」という優れた研究があるので、興味のある方は検索してみてください。



さて、彦根城を後にした拙者ですが、そのまま駅に向かわず、ここに立ち寄りました。すなわち彦根伊市役所でございます。なぜならここの屋上に、彦根城を一望できる展望台があると、昨夜の散歩で知ったからでございます。



エレベータで屋上に出ると、ピアノと鎧兜と多彩な椅子とテーブルがありました。理由は知りません。



さっそく屋上に出ると、とてもステキな緑化空間でした。…いやこれ、展望台じゃないんじゃん。少なくともどっか一辺くらいは端まで近づかせてよ…



とりあえず、もっとも城に近い場所から撮影すると、こんな感じにステキな隣の建物のアンテナが写り込んでしまいます。
でもってこのアンテナ、上のUHFはテレビ用だと思うんですが、下の左右にあるのは波長からしてVHFなので防災無線?でも二本とも同じ方向を向いてるのはなぜ?というかパラボラアンテナも同じ方向を向いてるので、この先に何かあるのか、と思うところですが、琵琶湖があるだけなんですよね。微妙にお城の方向を避けてるのは周波数が高いので、山で遮られるを避けてるんでしょうが…。

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