西の丸に入りました。本丸地区よりは僅かに低地ですが、その間に堀切などによる切断は無く、地続きで入れます。ここと本丸が彦根城の心臓部と見ていいでしょう。一帯にあった建物はほとんど取り壊されてしまったため、現状は広場のようになっています。バスが待っている表門側に戻る必要がある学生さんや団体さんは、別の出口に出てしまうこちら側には回ってこないようで、突然という感じに人が居なくなり、かなりノンビリと見て回れました。 ここも高台なので眺めはいいです。城の西側の琵琶湖方面。赤い屋根の建物は彦根市立西中学校の体育館。ここからは見えませんが、お城との間には内堀があり、その畔を昨晩は歩いたわけです。となると、ライトアップされていたあの建物がこのすぐ先にある、という事です。 ちなみにこの中学校、かつての弘道館、すなわち藩校の跡地に建ってます。昨夜歩いた時はてっきりその弘道館跡に滋賀大学が建ってるのだろうと思ったのですが、まさか普通の市立の中学校があろうとは。 そしてその先にあったのがこれ、城の裏側一帯で唯一の現存建築、 西の丸の三重櫓です。 ここはカギカッコ型の建物で、石垣の角上に建っている櫓(やぐら)です。中央部分に三層の物見櫓があるため、三重櫓の名が付いてます。ちなみにこれも重要文化財。石垣の角地にこういった天守閣のような櫓を置くのは江戸城の富士見櫓や伏見櫓、大坂城の千貫櫓などと同じ構造です。 ちなみに江戸城の伏見櫓がかつての伏見城の天守閣という伝承があるのと同じく(ただし未だに証拠は無し)、こちらは織田家の宿敵、浅井長政の小谷城からの移築、という伝承があるそうな。確かに信長公記に落城後の小谷城を焼いた、という記述はなく、信長の命で浅井領を受領した秀吉が受け取った事になっています。ただし既に説明したように秀吉は山城で雪が深い小谷城に速攻で見切りをつけ廃城、長浜城に移りました。おそらくこの時に小谷城の主な建物を全部移築したはずで、小谷城の天守閣、というのは無理があるでしょう。 ただし既に見て来たように彦根城はあちこちの城から分捕れるモノは全て分捕って来てるので、どこかのお城の建物だった可能性は低くありませぬ。どこか、と聞かれると判りませぬが。 中に入って見ると、なんかこれまでの建物と雰囲気がちょっと違う。 現地の解説を見ると、ここは嘉永6(1853)年の幕末に大規模修理があり、ほとんど建て替えられてしまっている、との事で、他の建物とは違って幕末に建て替えられた櫓と考えた方が実態に近いようです。そのせいか昭和の補修工事の悪夢があまり入っておらず、江戸期の建物の雰囲気をよく残してました。平成に入ってからも再度、補修工事を請けてるのですが、この工事は後で見るように見事なもので、なんで天守閣もこうしなかったの、と涙しました… |