では彦根城天守に至るまでの守りの要、天秤櫓の内部の見学と参りましょう。

門の上に室内空間がある櫓(やぐら)門は江戸城や大阪城にも現存しますが、こんな形のものは初めて見ました。徳川の城というより、やはり秀吉時代(本人の築城したものでは無いが)の長浜城の遺構、という事なんでしょうね。ただし前回も述べたように実際に長浜城のものかは確証がないようですが…。それでも彦根城の場合、主要な建物はほぼ全て他の城から移築している、という点は井伊家の記録から間違いないので、江戸城、大阪城に比べて古い時代の城の特徴が残ってるような印象を受けます。

ただし古写真で見ると、門の上の窓付近の構造が現状とは異なります。従来はもっと柱が少ないあっさりした形状のものでした。恐らく戦後の修復時に変えてしまったんだと思いますが、なんでそうしたのかは判りませぬ。ついでに言えば、その左右の黒っぽい窓も、かつては白塗りとなっていました。



入り口は当然、裏側、城内側にあります。



ペットは入館できません、とわざわざ断っている、という事は連れ込もうとした人間がいる、という事でしょうね。というか、入場券売り場で断らなかったのかと思ったんですが、帰宅後に確認したら、ここ、建物内以外はペット同伴可なんだそうな。あれま。



中はかなり広いです。

上の梁の柱の表面に注目。微妙な凸凹が残って居ます。これは農具のクワのような大工道具、釿(ちょうな/彦根城ではチョンナと表記されていた)で表面を削って平らにした跡だと思われ、恐らくかなり古いものです。ツルピカの表面仕上げ、鉋(かんな)掛けに必須の台鉋は戦国期には普及しておらず(明確に使用した最古のものは厳島神社廻廊にある天正5(1577)年の棟札の付いた材木だろう。信長による安土城の築城開始の時期)、よって当時、平らな表面仕上げと言うのは、そう簡単に造れるモノではありませんでした。ただし槍の先端部のような刃を水平に擦って使う槍鉋(やりかんな)は古くからあり、これならもっと滑らかに仕上げられますが、作業効率は地獄の釜焚きのように悪く、量産には向きませぬ。

とりあえずここの床板はツルピカの真っ平らであり、こういった板が簡単に磨き上げられる西洋鉋(かんな)が入って来た明治以降のもの、下手をすると昭和の時代に製材所で仕上げて来たもののようにも見えます。その他の部材もかなりツルピカに仕上がっているモノがあり、かなり後世の手が入ってるぞ、と思う(槍鉋でもある程度平らにできるが、これほど大量の板を造ったら大工さんは死ぬ)。

ただし、釿目跡がある柱でも妙にきれいなものがあり、後世の修復で材木を入れ替えた際に、それっぽく模様を入れたのでは、という疑惑もあり。



その先の窓から、再び佐和山を望む。下に見えてるのが、例の博物館と表御殿の再現建築。やはりかなり大規模なもので、よくまあ造ったなあ、と思う。



さて、そこから奥へと向かいます。外から見た以上に広いのに驚きました。これなら弾薬も弓も積み込み放題でしょう。

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