その先の地獄の堀切。
ここを通過する間に、右の天秤曲輪はもちろん、左の鐘の丸からも攻撃され放題です。そしてここから一番奥までは約40m、走って突破するには長く、もし一番奥に鉄砲隊をずらっと並べられて撃たれたら、進みようがありませぬ。無理に進入すれば、逃げ場のないこの空間で一方的に殺戮される事になります。しかも向こうが高台ですから、反撃も厳しいのです。ついでに石畳に上から油を流されたりしたら目も当てられんでしょう。

ちなみにこの上に架かる天秤櫓の門に繋がる木橋、一番下の台座はコンクリートですが、それ以外は全て木製のホンモノの木橋です。明治の写真を基に幕末期の橋を再現してます。
ただし補強に金具とボルトを使いまくってるので、往時とは似ても似つかない構造ですが、それでもこれだけの規模の橋を完全に木製で再現するとか、どこまで本気なのよ彦根城、と思う。ただし表門の木橋と違って、ここは落ちたら死にますから、強度大丈夫なの、という不安が無くはないですが…。木造の橋ってそこまで正確に強度計算ができるものなのか。修学旅行生が集団でガンガン渡ってるのを見て、個人的にはちょっと心配だったりもします。

さらにちなみに、この橋もそもそもは防御陣地だったはずです。敵が直前に進入してくるまでは落とさず、橋上から下の堀切の敵を攻撃したはずです。築城時には壁も屋根もある構造だったという解説が現地があったので、やはりこれも戦闘構造物だったと思われます。



さて、その地獄の堀切部を突破すると左側、すなわち天秤櫓とは逆側に階段が出現します。これが鐘の丸に入る虎口の階段。

ちなみにこの一帯、鐘の丸の虎口(こぐち。入り口を狭くして大軍の通過を防ぐ構造)の石垣には、石田三成の佐和山城のモノを一部再利用してる事が確認されたのだとか。鐘の丸は一番最初に完成した曲輪と言われてるので、佐和山城の解体と並行して、彦根城は建てられたのかもしれませぬ。



その坂を上った先、鐘の丸の入り口には売店がありました。鐘の丸には往時の遺構は何も残ってませんが、左の石垣を見る限り、ここにも虎口の門があったように思います。そして、あの売店の前を左に曲がると、例の木橋があります。



はい、ようやく天秤櫓の門に出ました。手前に見えてるのが先に見た木橋で、ここまで回り込んで来ないと天守閣に向かう道に入れないのです。ちなみにこの天秤櫓は重要文化財に指定されてます。井伊家の記録では長浜城の大手門の移築とされているそうな。ただしこの点、明確な証拠はまだ見つかって無いのだとか。

ちなみに江戸期以前の建築に使われていた釘、和釘は一本一本手打ちで太く、高価な事もあり、建築物に対して大量に使うのは無理でした。このため当時の建物は現代の木造建築のように釘に頼った接着構造になってません。組み木細工、立体パズルのように組み上げ、必要最低限の釘を打ち込んでその構造を支えています。さらに高価な釘は回収可能で、比較的簡単に引き抜けたため、建物の解体、移築は現代の感覚で考えるより楽でした。

このため、江戸期(一部は大正期まで)の大型木造建築はあちこちで解体、移築が普通に行われており、寺院や城で、他から移築したものが多いのはこれが理由です。おそらくこの櫓門(やぐらもん)も表面の漆喰さえ剥がしてしまえば、解体、再建はそれほど困難では無かったでしょう。運搬には琵琶湖の船が使えたでしょうし。

ただし現地では秀吉が造った長浜城の大手門、といった書き方でしたが、既に見たように元祖長浜城は地震でほぼ完全に倒壊してるので、恐らく再建後(秀吉は既に城主では無かった時代の)門だと思われます。それでも戦国末期の建築を想像するには貴重な存在でしょう。

ついでに左右の石垣の積み方が異なりますが、これは左側は幕末の嘉永7(1854)年に大規模修理があり、近代的な石垣に変えられたからだそうな。



その橋の上から琵琶湖方向を望む。左手に見えてる島が日本で唯一人が住む湖上の島、沖島です。

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