井伊家の赤揃えの伝統を継いだ甲冑。江戸後期の藩主、井伊直中のものだとされます。

ただし井伊家がその装備を赤色に揃えたのは元祖赤ぞろえの武田家の滅亡後、それも本能寺の変の後で、恐らく小牧・長久手辺りがデビュー戦でした。よって戦国期の徳川家を代表する死闘、三方ヶ原、姉川、長篠といった歴史に残る合戦には参加してません。この辺り、特に目立った功績も無いまま伝説になってしまった、という面が無くもなく…。

ちなみに江戸期の甲冑はほぼお飾りで、特に兜は戦国期に進化したカッコいい意匠を無視して鎌倉から太平記期時代のダサい形状に逆行した部分があり、個人的には死ぬほど嫌いです。美的センスの無い江戸期文化の代表例でしょう、これ。ただしこの兜はそんな江戸期のデザインの中では個性的で、ちょっと好き。これならシャア専用にしても、若狭ゆえのハマチで済ませると思います。



黒塗り弓、こちらも江戸期のもの。
典型的合わせ弓(合成弓)の和弓で、竹と木材を貼り合わせて強度を出しています。ちなみに竹と木の合成弓は平家の時代からあったはずで、戦国期にはかなり進化してました。戦国期に旧来の甲冑が無用になったのは鉄砲の破壊力が原因とされる事が多いですが、当時の弓も薄い鉄板くらいはぶち抜いたはずで、その進化の影響もあったかと個人的には思っています。

ちなみに和弓ですから上下の中心点では持たず、下側の三分の一辺りの場所を握って撃ちます。写真ではちょうどその辺りが黒く変色してるので、単なる装飾品ではなく実用はされていた、と見ていいのかもしれませぬ。



と言った感じで、博物館の見学は終了、いよいよ城内の見学に向かいます。ちなみに予想以上に時間を食ってしまっており、ちょっとあせっております。



博物館の出口の向こう側にあった案内。いや、ここも既に彦根城内だよね…。



でもってその先の天守閣に至る道が思った以上に急な登坂で驚く。山城の佐和山から移転した、平地大好き徳川家の城、という先入観があったので、こんな険しい構造とは思ってなかったのです。まあ、昨日の夜の段階で、やけに高い場所に天守閣があるなあ、位には感じてはいたんですが。

天守閣周りは完全に山城であり、やはりここは徳川家最強戦闘要塞なんだ、と思う。

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