では川幅の広い方に掛かる大橋に入って行きます。夕暮れ時、黄昏時の橋の上はいい感じでした。



東側の河岸に到着。漁船らしきものが見えますが、釣り船かも。



そこから橋を振り返る。歴史を誇る橋らしい装飾があり、ちょっと楽しいです。

でもって巨大なムカデの絵が橋の横にありにけり。なんだこりゃと思って解説を見ると、我が家の近所の神田明神の御本尊様、平将門閣下を討った武将、藤原秀郷にゆかりの土地らしいと知る。秀郷がこの橋で人に化けた大蛇から依頼を受け、近所の三上山の大ムカデを退治した、そのお礼に竜宮城に招かれた、というお話が室町期に成立した物語本、俵藤太物語にあるんだとか。初めて知りました。
ちなみに帰宅後に確認したら「太平記」の十五巻にも同じようなお話があり、こちらは三上山ではなく、琵琶湖の湖底にある竜宮城に招かれ、そこで退治した事になってます。いずれにせよ竜宮城がある湖は日本で唯一では?

ついでながら秀郷は退治後にお礼として釣鐘をもらった事になってますが、その釣鐘は翌日、三井寺にて見る事になります。



少し離れたところから橋を見る。
左手前の建物は川の中の島に建っているもの。よってあの向こう側に狭い流れがあります。瀬田川、水量は多めでした。ただし現在は下流にダムがあり、当時はここまで水量が無かった可能性もあります。

それでも大人数の軍隊にとっては必須の橋でした。実際、本能寺の変の直後、勢多城の山岡景隆が橋を焼き落とし、京都から安土に向かおうとした光秀率いる明智軍の進撃を防いでしまっています。ただし兵力がない山岡は、そのまま城を捨てて撤退してしまったため、明智軍は特に妨害などを受けずに橋を修理、安土城に入ります。

「信長公記」では本能寺の変の当日に橋は落とされた、フロイスの「日本史」日本語版第57章では、本能寺の変は6月20日の水曜日、そこから土曜日までの三日間、明智軍は勢多で足止めされたとあります。やはり大軍の移動には不可欠な橋だったと見ていいでしょう。



なんだかいい感じの水路とかもあり、もうちょっと明るい内に到着しておきたかったな、と思う。

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