ここで少しだけ、瀬田(勢多)の唐橋について説明て置きましょう。日本で一番デカい琵琶湖には無数の川が流れ込んでいます。ところが流出する川は最南端部に位置する瀬田から流れ出る瀬田川、下流では宇治川、最終的に大坂近郊で淀川と名を変える川だけです。同時にこの瀬田川は琵琶湖沿岸部で最大の河口を持つ川になっています。 そして京の都から陸路で東に向かう街道は、全て瀬田を通過します。東海道も中山道も信長の下街道も、全てこの先の草津から分離するのです。よって渡河地点としての瀬田(勢多)は、商業的にも軍事的にも極めて重要な土地でした。ここに信長が架けたのが後に勢多の唐橋と呼ばれる事になる木橋です。 ちなみに橋を渡らない場合、琵琶湖を北周りに半周以上して関ケ原に抜ける(実際は北部の険しい山間部の湖畔は通れないため、日本海側の若狭近くまで迂回する地獄の経路となる)、坂本から長浜まで船で渡る、といった代替手段がありますが、どちらも大人数の移動には向かないため、軍事的にはこの橋が極めて重要になって来ます。このため戦国期には東側のすぐ横に、地元の豪族、山岡氏の勢多城があり、この橋を守っていました。 出典:国土地理院ウェブサイトより 必要な部分をトリミング、各種文字情報を追加しています。 ここは京都と東日本を繋ぐ交通の要衝ですが、意外なことに戦後になるまで唐橋のみしか無く、後は鉄道の東海道線の鉄橋があるだけでした。戦後の1948年に撮影されたこの写真のように途中の島を経由して西の小橋、東の大橋に別れているのが勢多の唐橋の特徴で、東側の大橋のすぐ南にかつて勢多城がありました。赤線で示したのが京都に至る街道で、ここでは東海道、中山道、下街道がすべて合流しており、ここ以外に京都に至る道はありませんでした。 橋は平安期以降、何度か架けられているるのですが(平安期はもう少し南にあったらしい)、戦国期に入った段階では失われていました。 このため信長は浅井の裏切りによる金ケ崎城からの撤退戦、さらにはその後発生した浅井・朝倉による比叡山籠城、そしてその復讐戦である比叡山焼き討ちと、ほぼ二年間の間に何度もここの渡河で悩まされています(このため丹羽長秀が船に板を渡す船橋を造っている)。「信長公記」によると、信長は1574(天正二)年の年末から領内の道路整備、道普請を一気に進めたのですが、翌1575(天正三)年にこの場所に架橋を命じてます。これは旧暦7月、長篠で武田軍を包囲殲滅した直後でした。そして橋は早くも10月に完成、これを信ちゃん自ら視察してます。 ちなみに勢多の唐橋に関してはフロイスの「日本史」の日本語版第33章にも記述があります。 それによると幅は畳四畳分、180畳の長さがあったとの事ですが、当時の畳の大きさはよく判らん上に縦横どっちの長さなのかも不明。それでもフロイスの説明から極めて大規模な橋だったことが判ります。ちなみに中間の島に信長は自らの休息所として一軒の庵を建てさせ(自ら建築に関わっていた、とも取れる記述になっている)、平時はこれを信長の個人崇拝のための参拝所の一つにしてました。このため、橋を渡る人間は必ず下馬せねばならなかった、ただし婦人は例外とされた、との事。 ちなみに信長は陸路で京都方面に向かう時はよく勢多城に宿をとっている事が「信長公記」から確認できます。さらにちなみに船で京都に向かう場合は、安土から明智光秀の城、比叡山の麓の坂本城まで渡り、そこから自らが整備させた新街道、いわゆる志賀越道(現在の県道下鴨大津線にほぼ一致する)で京都に入ってました。 |