では安土城跡の内、見学可能な一帯はざっと見たので撤収に入りましょう。 私は織田屋敷跡だと思っているここから見てもほぼ山城、しかも石垣だらけで、個人的には南米の山岳文明遺跡を思い出させるものがあります。訪問前になんとなく想像していたのとは全く違う城だった、というのが正直なところです。少なくとも江戸期のお城のような白壁の外壁はほとんど無かったと思われるので、当時のこの城を遠くから見ると天空の城ラピュタ状態、あるいはインカ文明による15世紀の遺跡(安土城より約150年古い)、マチュピチュのような印象だったのではないか、と思いました。「日本史」の中でフロイスも「この城全体が、かの分厚い石垣の上に築かれた砦に囲まれており」、と表現してますしね(日本語訳版第55章)。 ここを舞台に、1985年までの宮崎駿さんの感性で天守閣を目指す大冒険活劇とか造ったら楽しそうですが。 最後にかつて大手門のあった辺りから大手通り沿いにお城を振り返る。 例の古地図だとこの向こうも一部は水の底だったとされますが、現在の復元は大手門周辺からはすでに陸の上だった、という前提に立っています。私は水の底だったと思いますけどね。階段の横の水路を流れて来た水を、どこかに排水する必要があったはずですし。 大手門と大手通から東側はほとんど発掘も復元もされてませんが、例のお堀沿いの武者走り(通路)と思われる部分が残って居ます。せっかくなので少し歩いて見ると、道横の一部は沼地となっており、当時はここまで入江が来ていたのだ、という数少ない証明になってます。今後これが埋め立てられたりしませんように、と祈って置く。 一部は発掘された後、石垣等を復元する事もなくそのままの状態で置かれています。明らかに武者走りから城内に入るための門の跡がこちら側にもあり、石垣の高さからして、上に土塀があったとしてもやはり防御能力は無いに等しい構造に見えますね。 城の南東部は最初に述べたように最初から街道が接していました。ここにはやや高台の、おそらく防御陣地だったんじゃないか、と思われる曲輪(城内の独立した区画)らしきものがありますが、これが何だったのか、今となっては全く判りませぬ。自称で専門家を名乗る人達なら何ら資料も現物も無いのに、何かこじつけちゃうんでしょうが、私はそういった事に興味が無いので、不明なものは不明としておきます。 |