ようやく見学の最高地点、天守閣跡に到達。ここもかなり整備されておりました。ただし先にも述べたように、周囲はかなり崩れてしまっており、現存部分は本来の天守台より狭くなってしまってますが。



周囲の石垣にも登れます。

地下室(土蔵)のある天守閣だったので、石垣の下に空間あり。ちなみに信長公記やフロイスの日本史によって七層天守閣だった事、凡その構造も判っています。ただし、世の中に出回っている復元天守閣は、「屋根の上には雄大な怪人面(鬼瓦)が置かれている」「屋根瓦は遠目からは青く見えた」「七層は七色に塗り分けられてる(記述があるのは白壁に黒窓、金、赤、青)」といったフロイスの日本史における記述が全部無視されてるのはなんでやねん。



柱を支えるための礎石がかなり大きく、しかもこの密度で置かれている、ということから木造建築の限界に挑む建物だったのだろうなあ、と思う。



そこから安土駅方面を見る。こんなローカル線に盛大な立体交差がある理由は地域の発展のためという事で、という印象の橋の向こうが安土駅。手前の田畑は当時は水の底ですから、やはり駅周辺が当時からの城下町だと思います。



北側を見る。この一帯は奥に見えてる琵琶湖まで続く水辺でした。戦後までほぼ当時のままだったのを、終戦直後に狂ったように埋め立ててしまい、こういった光景が出現することになったのです。「街道をゆく」の中で司馬さんがその光景のあまりの変化に絶望し、絶句したのがここですね。

ちなみに手前に見えてる丘陵は安土城から尾根続きの一帯ですが、水上に突き出した半島部だったあの奥までは城砦化されなかったと思われます。ただしまともな発掘調査はされてないので、絶対とは言い切れませんが

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