さて、階段を下りて、本丸&天守閣に続く道に戻ります。



その先、城内で最も高い場所に位置するこの石垣が天守閣のもの。ただし一帯を焼き払った時の影響か、戦前に行われた昭和の発掘時には、ほぼ倒壊した状態でした。この辺りはその時に修復されたものだと思われます。が、どうも適当にやっちゃった感があり、天守閣跡はかなり縮小されて再現されてしまってます。よって実際はもっと手前まで来ていたはず。当然、石の積み方も怪しいです。



本丸跡とされる場所に出ました。ただし、ここが本丸と呼べる施設だったかは個人的に怪しいと思います。

現地の解説板によると東西50m、南北34mの長方形の敷地で、火事の痕跡が残って居た、との事なので、これも信雄ちゃんの放火でキレイに焼けてしまったと見るべきでしょう。

発掘によって建物の礎石が発見されていますが、大型の建物が一つと、それと廊下で連結されたやや小さい建物が確認されています。この内、大型の建物は内裏が火災で失われた後、天皇の住宅となっていた清涼殿によく似た構造を持つことが判明したそうな。信長公記の最終章、天正十年の第十五章の正月の記述に、「御幸の御間」すなわち「一天の君、万乗の主の御座御殿」が城内にあり、この年の正月に特別に配下の武将たちが中に上がっての見学を許された、とあります。

さらにフロイスの日本史、邦訳版の第53章(原著の第2部31章)にも「信長は(安土の)中央の山の頂に宮殿と城を築いた」、さらに「自分の邸とは別の宮殿を築いた」とあるので、この一帯は、信長が造らせた天皇のための住居跡だったと見るのが自然でしょう。問題はなんで城内に清涼殿があるのよ、という点で、考えられる可能性としては「たまに天皇に遊びに来てもらう事で信長と安土城にハクを付けたかった」「後ほど天皇を強制的に安土に遷座させるつもりだった」などですが、今となっては判りませぬ。ちなみにフロイスによると、信長は生前、関白の地位を欲しがっていた、とされるので、何かその関係の可能性もあるかも。ちなみに結局、一度も天皇はここを訪れずに終わっています。

いずれにせよ、ここがいわゆる本丸では無い、すなわち信長の住居でも政庁でも無いのはほぼ確かかと。



ここから上に続く細い階段が、天守閣に続く道です。さあ、いよいよラストスパートだ。



…とか思ってたんですが、これも結構な長さがあり、そう簡単には天守閣跡まで辿り着けないのでした…。信ちゃん、やり過ぎだよ、と思う。ここで働いてた人達は、さぞや足腰が鍛えられたでありましょう。

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