その先で、初めて門らしい門、かつての黒金門の跡に出ます。
通路はクランクカーブとなってました。さすがにこの先は城内心臓部ですから、この門には一定の防御力があったようです。 ちなみに平成の大調査ではここからも炭化した材木が出たとの事で、本能寺の変の後、この上の一帯を信長の次男、信雄ちゃんが頼まれもしないのに焼き払ってしまったのは間違いないようです。



その門跡を抜けて、左側、ちょっと高くなっている場所にある、その信雄ちゃん一族のお墓。放火犯人が現場に自分のお墓を造ってるの、初めて見ました。

ちなみに織田家は信長の兄弟の家系が複数の子孫を残していますが、明確に信長の直系と確認できるのは「頭が弱い」とされた信雄の一族のみです。



その先は大分崩れた状態ながら、石垣の間を縫うように階段の道が続きます。手前の石垣の上が二の丸、その奥が本丸、そして本丸と二の丸の間の高台に天守閣、という構造となっていました。



最後に90度カーブで、本丸と二の丸の中間にある通路へ。ここも門があったように見えますね。



そこを左手に進むと二の丸跡。意外に狭いな、というのが正直な感想です。まあ、大阪城や江戸城が異常なんですけども。
ただし、ここを二の丸とするのは例の古地図だけが根拠で、個人的にはここが信長の山頂部の住居、あるいは政務を執った庁舎の跡ではないかと思っています。後で見る本丸跡とされる土地には明らかに別の建物が建っていたからです。



ここには信長の霊廟があります。建物は新しいものに見えましたが、例の古地図にすでに存在が確認できるので、江戸時代初期には既にあったようです。当初は秀吉が造らせたものがあったとされており、その後、長らく放置されていたのを、昭和あたりに修復したのだと思います。ただし詳細は不明。ちなみに徳川家のお墓と同じ、神道式のお墓のようです。禅宗のお墓と言う説明もありましたが、違うと思いますよ。ついでに、当然ながら本人の遺体は未発見ですから、ここに遺体や遺骨が眠ってるわけではありませぬ。

ちなみに秀吉がこの場所に信長の墓所を造ったのも、ここが信長の邸宅の跡地という推測の根拠の一つです。

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