その大手通が、天守閣下まで来ると、左に大きく曲がります。ここから森の中に入りますが、当時はこの一帯も屋敷で埋まっていたはずです。山の上に城を造っちゃったので、なにしろ土地不足だったとフロイスが述べてますから。 そこでほぼゴールと思ったら大間違い。そこから先も延々と登りが続くのです。ただし、さすがに一直線ではなく、道は曲がりながら高度を稼いで行くことになります。 中腹で道が一時的に水平に戻ります。 あの看板の所がT字路になっており、直進すると信長の個人崇拝のためのお寺の總見寺、右に曲がると本丸&天守閣方面です。当時の總見寺は一般にも開放されていたので、天守閣下までこれまた、まともな障害物無しで突入して来れてしまうのです。やはり防御なんて二の次で、信長さんは自分が造りたい城を造りたいように造ったんだと思います。 そのT字路を右に曲がると、この光景。フフフフ、こう見えても拙者、若いころは3000m級の山を日帰りで登ったりしてたニンジャでござる、と思ったんですが、その後の30年近い加齢によって、かなりキツイ事を思い知る。これは城跡巡りではなく、軽登山だよな、と痛感。 かなり登ってから、ようやく左手に石垣が見えて来る。本丸の手前、二の丸下にある屋敷跡、あるいは曲輪(防御陣地などの独立した一角)だと思われます。フロイスによるとあちこちの角に見張りの櫓があった、との事なのでその跡かもしれません。 |