山の上のお城大好き信長さんが先頭に建って建設しちゃった安土城跡を見学するには当然、この山を登りまくる事になります。今日は午前中に彦根城との対決ですでに結構な高度を稼いでるのですが、またもこれ。そして今回はさらに倍。それでも行くのだ夕撃旅団。 今回が初訪問ですが、平成の発掘と大整備でここまでキレイになっているとは知らず、ちょっと驚く。昔の写真だと完全に鬱蒼とした山の中に、廃墟のように石垣と石段が埋もれている、という印象だったのですが、これはもう普通に城跡ですね。ただしこの辺りの階段は全てその段階で復元整備されたもので、往時のものではありませぬ。石垣なども完全に崩れていたはずで、あくまで「復元」ですね。 ちなみに大阪城を造ったのは誰、という質問に豊臣秀吉ではなく大工さん、という回答が存在します。ところが安土城の場合、建築マニアの信長ですから、間違いなく本人が先頭切って大工作業を行ったはずで、あらゆる意味で信長が建てたと断言していい城です(笑)。そもそもフロイスが初めて信長に会った時も京都の二条に建ててた将軍用の新しい城の建設現場で大工仕事中でした。とにかく建物と大工仕事が大好きな人なのです、信ちゃん。 大手通りを登り始めてすぐ左に現れるのが羽柴秀吉邸宅跡とされる屋敷跡。ただしここを羽柴邸とする根拠は先に見た古地図にそう書いてある、というだけで、当時の文献には一切、記述がありません。そして私はそれは違うだろうと思っております。 山城と言うか、南米の文明遺跡のようなというか、とにかく高低差があるために階段状の土地に無理やり屋敷を造った感があります。現状は石垣しか残ってませんけど。 ここは大手門裏の一等地と言うか城の顔とでもいう土地であり、発掘によって屋根瓦が出てます。そしてフロイスの「日本史」によると、屋根瓦は信長の城(屋敷)以外では利用が許可されていなかった、さらに例の城の南に隣接して建てられたセミナリヨは信長の屋敷からすぐそばだった、という記述から、私はここが信長の下屋敷、すなわち城下での生活空間だったと推測しています。 なんぼ信ちゃんでも100m近い高低差を毎日登り下ろして仕事するのは面倒だったでしょうし、基本はこっちの屋敷周辺で政務を執っていたんじゃないかなあ、そして本能寺の変の後も、ここは焼け残ったので、秀吉が信雄や三法師と言った織田家の跡継ぎを安土城に入れたんじゃないかな、と。この辺りは推測の範疇を出ませんが、少なくとも安土城完成から本能寺の変まで、中国地方で連戦し安土にはほとんど居なかった秀吉の屋敷では無いと思いますよ。 さらにちょっと脱線。 陽気で人好きなひょうきんもの、相手の懐に飛び込んで直ぐに親しくなってしまう、という「人たらし」の秀吉という人物像は誰が造ったんだろう、と長年考えています。当時の記録にそんな話はありませんし、小説的な展開である小瀬甫庵の「太閤記」の秀吉ですら優秀なビジネスマンというか、下手をすると世間知らずで理屈ばかりの頭でっかちの学生程度のキャラという印象です。配下の武将が病気になると心配したり、戦死すると涙したり、という記述はあるものの、情け深い人という印象操作であり、人が好い、という描写ではありません。優秀で切れもの、という真面目ちゃんキャラクターから外れる事は無いのです。 現在に至るまで続く秀吉像の元ネタになった江戸末期、寛政年間に出た「絵本太閤記」あたりが元祖かなと思ったんですが、これも違いました。橋の上で「盗賊」の蜂須賀小六に会う、墨俣で一夜城を築くなどの胡散臭い話は全てこの本が出典ですが、それでも秀吉は度胸も知恵もある武将と言う描写に過ぎず、お人好しの人たらし的な話の展開はありませぬ。 どうもこのあたり、やはり司馬遼太郎さんが元かなあ、と思うんですが確証は無し。司馬さんはロクに資料が無かった新鮮組の沖田総司を病弱で飄々とした美少年にして無敵の剣豪、という今や日本中で見かけるキャラ設定にした前歴がありますからね。 その「秀吉屋敷」と大手通を挟んだ反対側にも建物の跡があり、これは前田利家屋敷跡とされてました。ただしここを前田屋敷跡とする根拠を私は知りません。…適当言ってない?「絵本太閤記」以来の、秀吉と利家はご近所で仲良しさん伝説を鵜呑みにしてない? 大手通横のここが入り口で、本来なら奥に上る階段があり、その先の右奥に屋敷があったとされますが、どうかなあ。この構造は城下の武家屋敷では無い気がしますけど。 |