■琵琶湖岸の基礎知識 今回、お話を伺った賤ケ岳のボランティアガイドの方がおっしゃっていた「琵琶湖畔は戦国銀座です」という言葉は全く持ってその通りでして、この辺りを最初に地図で確認しておきましょう。 今回の旅は最初に北端部の賤ケ岳に行き、以後、反時計回りに南端部の瀬田を経由、延暦寺まで向かいます。参考までに鉄道の営業キロではほぼ100キロちょうどの距離です。当然、これまでの国内旅行では最長の移動距離となりました。 ちなみに北西岸はそれほど歴史の舞台として登場しないので(信長が北陸から単独逃走した時の経路だったりするけど)、今回は延暦寺までとしたのでした。 まず基本中の基本として、琵琶湖は周囲をぐるりと山地で囲まれた湖で、湖畔地帯からそのまま外部の平野へ脱出できる道は全くありません。このため、どこに行くにも山岳地帯の峠を超えるのですが、その突破口は大きく三か所になります。 一つは言わずと知れたその南端、大津から西へ、すなわち京都方面に向かう道(逢坂(おうさか)の関)、そのすぐ東の草津から鈴鹿峠に向かう東海道(鈴鹿の関)、最後は同じく草津から北に向かう中山道が岐阜を経由して名古屋方面に向かう関が原(不破関)ですね。 そして峠と言うのも生ぬるい、という山地を強行突破して北陸に向かうのが北陸(北国)街道ですが、ここは一時期街道と呼べる規模の道が消えており、これを復活させたのが織田家譜代の重臣、柴田勝家でした。 その柴田は自分が開発した道を抜けて北陸制覇に向かったわけですが、ここで本能寺の変が起きます。最終的にその織田家北陸方面軍を率いて当時の政治の中心地である岐阜、尾張方面への突破を目論み琵琶湖岸を目指したわけです。これを山岳路の出口である賤ケ岳で食い止め、撃破してしまったのが秀吉率いる織田家の外様軍団だった事になります。 このように京の都から東に向かう三つの街道、東海道、中山道、そして北陸街道の三つすべてが琵琶湖南岸を通過していたため、この一帯は常に戦いの舞台になって来ました。 ついでに言うと、東海道新幹線&東海道本線は名古屋から京都の直前までは中山道新幹線&中山道本線が正しく、看板に偽りアリ、となっています。おかげで私は長年、関が原は東海道沿いだと思っておりました。チキショーメ。一方、国道一号は正しくかつての東海道を走ってます。 とりあえず琵琶湖の地図を見ていただくと、まあ心躍る地名が湖岸の北から東周りにその南端部まで、ずらりと並びます。 南北約60qの北端に位置するのが既に見た賤ケ岳、その麓にあるのが秀吉の高速機動戦の本陣となった木ノ本、その南東にあるのが織田家を裏切り、そして後の淀君を産んだ浅井家の本拠地小谷城のあった小谷山。 その浅井家が朝倉家と組んで織田&徳川連合軍と激突した姉川の戦いの古戦場はその目の前、さらにその横には鉄砲鍛冶で有名な国友村があります。その国友村の直ぐ横が秀吉が最初に軍団長としての本拠地として築いた城、長浜です。秀吉と言えば大阪城、という感じですが、実際は彼の生涯に最も縁があったのはこの長浜城だったと思います。 そしてその長浜を南に向かうと国宝とひこにゃん(大名なので夢のような勤務時間だった)で有名な彦根城、その横には元浅井家の難攻不落の城にして、織田軍団長の一人である丹羽長秀の城、そして最後はあの石田三成の城となった佐和山城が並びます。 その南西には言わずと知れた信長の安土城があった安土が、そのさらに先には古くからの宿場町の草津、そして琵琶湖南岸を突破する最大の要所である瀬田の唐橋があった瀬田へと続くのです。 その西が大津と三井寺となっており、この辺りが近江から京都に至る玄関口でした。ついでに今回は立ち寄ってませんが、この一帯のすぐ南にあるのが紫式部が合宿して源氏物語の着想を得たとされる、すなわち作家をカンヅメにする行事の発祥の地、石山寺です。 三井寺から北上すれば、明智光秀の本拠地だった坂本、そのすぐ横が信長に盛大に焼かれた日吉大社、となりの山の上には一緒に焼かれた比叡山延暦寺があるわけです。まあ、すげえな、という一帯であり、これを三日で回ってしまったのが今回の旅だった、という事になります。 ではさっそく、本編に行ってみましょうか。 |