さて、いよいよ仙台突入となるわけですが、最初にその街の構成をざっと確認しておきましょう。

仙台は古い城下町ですが終戦間際に行われた仙台空襲で中心部から仙台城(青葉城)に至る地区が完全に焼失したため、戦後、都市計画に沿って再建された街です。このため街を東西に貫く三本の大通り、定禅寺通(じょうぜんじとおり)、広瀬通、青葉通を中心に、東西南北にほぼ1q四方の正方形を成す中心部を持ち、主な商業施設も行政機関もこの地区に集中します。

ただし碁盤目状の道が実は微妙に東西南北方向からズレてたり、さらには生きるのに不器用な人が造った碁盤のように一部で歪んでたり、それに加えて古い通りが残ってしまったところは縦横無尽に好き勝手に道が走っていたりで、札幌や京都のような整然とした街並みではありませぬ。が、迷うほどの煩雑さと広さはないので、なんとかなるでしょう。



大都市中心部の街路樹としては、見事としかいいようがない大通りがいくつもあるのが仙台です。写真は定禅寺通の街路樹。私が見た範囲では、この通りの街路樹が一番見事でした。五階建てのビルより高いケヤキの並木が約1qに渡って続き、時間があるなら一日この辺りをウロウロしていたい、と思ってしまいます。

ちなみに仙台市は日本の城下町には珍しく、市の中心部に城跡がありません。伊達政宗は秀吉による城を中心とする新時代の城下町の発明の外側にいた人なので、仙台城をほぼ完全な山城としてしまいました。このため、城は市街地の外に位置し、歴史ある大都市ながら街の中心部に城跡が無いのです。

さて、そんな仙台の街を大まかな概念図にすると以下のようになります。



中心部を東西に貫く三本の大通り、北から定禅寺通、広瀬通、青葉通があり、市庁、県庁もこのすぐ横にあります。南北はほぼこの三本の大通り沿い(実際は南側は古くからある南町通あたりまで広がるが)、東西は駅から市役所辺りまで、それぞれほぼ1q四方にその中心部が集まっています。

仙台も古い街ですから駅は中心部から離れた街の東側に造られました。このため、駅の西側に対して東側はほとんど何もない、という状況になっています。そのやや寂しい東口の先に広がるのが例の宮城野区なんですが、かつて宮城野は仙台平野全体を指す名称だった、というのは既に述べた通り。

そして現在では駅周辺も、古くからの繁華街である一番町周辺と並ぶ商業地区に成長しています。 この二つの繁華街を結ぶのが東西のアーケード街。いくつかに分断されて、部位ごとに名前を持つのですが、面倒なのでこの記事では東西アーケード街としてまとめてしまいます。

その先にあるのが南北に走る一番町の商店街。こちらもいくつかに別れるのですが、ここでは南北アーケード街とします。このアーケード街の西側には国分町通りと呼ばれる繁華街があり、全く予備知識なく行ってみたら、歌舞伎町やすすきのを連想させる大規模な歓楽街で驚きました。



仙台の商業施設はアーケード街に集中しており、中心部は関西風。というか宇都宮や札幌もそうでしたから、むしろ主な繁華街では浅草ぐらいにしかアーケード街が無い東京が特殊な気もします。ただし仙台には大規模地下街が無い、という他の大都市には見られない特徴があります。理由はなぜだか判りませんが。

この中心部のすぐ南側には広瀬川が流れるのですが、深い谷を形成し、さらに南岸は険しい丘陵地帯になっているため緑地のまま維持されてます。

 

この丘陵部の上にあるのが仙台城で、この写真は城跡からのもの。

街の規模からすると、この丘陵地帯まで都市化が進んでも不思議はないのですが、市の中心部とは広瀬川で分断されてる事もあり、緑地が維持されています。画面中央に見えてる丘陵の手前側面が断崖になってますが、あの下を広瀬川が流れており、都市部を流れる川では珍しく、渓谷のような深い場所を流れ、周囲は市の中心より一段低い構造になってます。ちなみに後に訪れる伊達家の墓所、瑞鳳殿があるのがあの丘の上です。

仙台は写真のように高層都市で、この点はずっと人口が多い札幌と大きく異なる点でした。横浜、名古屋と互角の高層ビルの数があり、都市の規模を考えるとちょっと不思議な印象を受ける程でした。それ以外にも人口105万人でこの都市構造を支えられるとは思えぬ、という部分が多く、やはりここは東北の首都という側面も持つのだ、と考えるべきなんでしょうね。

ちなみにこうして見ると仙台の街はこの南側の丘陵で終わってるように見えますが、実際はこの丘陵部を挟んだ南側にも住宅街が広がっており、なるほど巨大都市だ、という状況が展開されます。 

といった辺りを踏まえて、では早速本編に入りましょうか。

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