各展示はこんな感じの通路で繋がってます。良い感じ。
ちょっと驚いたのがこの展示。台湾は日清戦争に負けた清が支配権を放棄して1895年に日本領になりました。でもって、それは台湾は未開の田舎の島であり清もそれほど必要性を感じてなかった面が大きい、というのが私の認識でした。
ところがこのパネル展示を見て、少々、驚く事に。
中国の歴代王朝による官僚採用試験、驚異の競争率だった科挙に台湾からどれだけ合格者が出たか、というグラフで、これを見ると日本領となる直前、清代末期には結構な数の合格者が台湾から出てるのです。
合格者数は時代によって多少数字が異なるのですが、清の末期だとおおよそ10万人の受験者に対して第一関門の郷試でも1200人前後、合格率1%前後と言う熾烈な試験でした。さらにその先、科挙試験の最終関門、殿試まで突破できるのは300人以下とされ、競争倍率300倍以上と言う壮烈な試験が科挙でした。
これに受かって官僚としての栄達を得るため清帝国全土から秀才と天才が殺到してましたから、その合格者数は地域の教育の普及と文化度を示す事になります(といっても中華的な文化であり、そんなもんで官僚の採用をやってたから最後に清は滅ぶんだけど)。
でもって、このグラフによると清帝国末期の1851〜1894年の44年間に郷試までなら106人の合格者である「挙人」が台湾から出ていています。科挙の開催は通常3年に一度なので、この間に14回行われたはずですから、毎回平均で7.5人前後の合格者が出ていた事になります。清帝国全土(ほぼ現在の中国に近い)で毎回1200人前後の合格者しか出ない試験である事を考えると、田舎の辺鄙な島にしてはかなりの数です。
さらにその上の試験、超エリート官僚の関門である殿試を突破した300名に満たない超エリート「進士」も同期間に21人、毎回平均1.5人の合格者が出ていたらしいので、とても田舎の未開の島とは言い難く、意外に都市化、教育機関の発達等が台湾でも進んでいたのだなあ、と思う。
そんな事を考えながら、どんどん見学。平日の早い時間帯ということもあり、お客さんは少なめです。
ここら辺りは日本領時代に学校で使われた教材とかの展示。もはやその世代の人はほとんど生きていないと思われますが、この男性はかなり懐かしそうに眺めてました。
そこにあった二宮尊徳像。こんなもの、台湾の人たちに押しつけてもなあ…と思う。
といった感じで、この施設の見学は終了、次の目的地、龍山寺に向います。とりあえず今回の本編はここまで。
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