そこから東を見ると深い谷が続き、山城だなあ、と思う。

 

その先にはやや広い空間があり、城主などの居住区だったと考えられてるようです。
琉球王朝の支配時代にはここにその役所が置かれていたみたいですが、どうも明治前には放棄されてしまっていたらしいです。ちなみに瓦の類は全く出土してないそうで、北山王国にはまだそういった屋根は無かったんでしょうね。



そこから見た城内で最も東に位置する区画、志慶真(しげま)門郭。
やや低地に位置し、出土品から日常の生活空間だったと考えられているようです。その名の通りかつては志慶真門と呼ばれる門があったらしいですが、復元されてません。もっともこの下は深い谷でして、ホントにそんな所に門を?という疑問は残りますが…



今帰仁里主所火の神と呼ばれる祠。これも昭和9年の写真が残ってる建物の一つですが、そちらは現存しませんし、そもそも別の場所にありました。これは戦後、この城内の一等地に当時の写真を基に再建されたもの。祠ですがご神体とかは無く、沖縄式の聖所だと思われます。



そこで見られた石垣。
ここの石垣はほぼ全て戦後に組みなおされてると見るべきで、どこまで正確に往時の姿を留めてるのか微妙ですし、どうも再現がやや適当な印象も受けるんですけど、少なくとも使われてる石はほぼ無加工の天然石で、雑然とした野面積なのは間違いないようです。



琉球王朝の中城城の石垣はこういう感じに整然と積まれてますですから、もう完全に別物です。これが地域差なのか時代の差なのか見当はつきませんが。ついでに現在の今帰仁城の石垣は、ちょっと適当過ぎる再現の気もしますが。

NEXT