お次に連れて行ってもらったのは泊港から首里城に向かう途中にあるこれ。 琉球時代からあった数少ない仏教施設、崇元寺(そうげんじ)の石門跡で、重文に指定されてます。ここも全く存在を知らず、初めて見てその規模にちょっとビックリしました。 崇元寺、現地では「スーキージ」と呼称されたようですが、なぜかアメリカ軍の作戦地図などでは漢字の訓読みである「タカモトジ(Takamotoji)」と書かれています。現地の人の発音をそのまま使用する事が多かったアメリカ軍にしては珍しく、おそらく本土から来た日本兵で捕虜になった人がいたんだろうな、寺院は音読みが原則なのを知らなかった人が協力を求められ、地図の文字をこう読んじゃったんだろうな、と想像しております。 ここは15世ごろに建てられた沖縄でも最も古い部類に入るお寺でした(正確な建立年は今でも不明だが、おそらく沖縄最古ではない)。前回の旅行記で書いたように琉球では最後まで政治にも民間信仰にも仏教は大きな影響を与えないのですが、なぜか琉球王朝だけは王家の廟寺を持っており、このため禅宗(臨済宗)のお寺がいくつか琉球王朝成立後の那覇に建てられています。かといって仏教に帰依したわけでもなく単にそれらのお寺に位牌だけを収めていたのです(墓所は前回見たあの玉陵である)。 この辺りの事情はよく判りませぬ。お寺の横に沖縄の土着信仰である御嶽(うたき)がある事も多く、形骸だけ取り入れた、という所が実態に近いのかもしれません。 このお寺は戦前まで健在だったのですが、沖縄戦における最大級の激戦、シュガーローフの戦いに巻き込まれる形で焼失、奇跡的にこの石門だけが残ったのです。それでも大きく損傷していたので、アメリカ占領時の1951年から1955年ごろにかけて修復され、往時の景観をほぼ取り戻してます。 が、なんでお寺で石門?という疑問が出て来るのですがこの辺りは謎です。そのルーツである中国南部でも、私はこんなお寺の門、見た事ないですし。そもそも首里城と同じ三つの門があるので、これ、政治的な施設でもあったのでは? 門をくぐって中に入れます。日本返還前にはここに図書館があったそうですが、現在は公園として整備されてます。 少し高い位置、この辺りにかつては第二の門がありました。入り口の門のあとに控える門ですから、通常なら山門になるはずですが沖縄ではそういった呼び方はされて無かったようです。 裏から見ても立派な石門ですね。やはり単なる台風対策の門とは思えず、泊港から首里城に向かう街道の途中にあるここ、一種の要塞として使う事も考えてたんじゃないかなあ。 公園内には立派なガジュマルの木が。 「見事なものですね」と感心したのですが、K山さんによると「たしかにそうだけど、宅地内で見つけたら速く伐採しないとすぐに大きくなって建物を傷めてしまう」とのこと。なるほど、そういった視点もありましたか。アユタヤとか、確かにこの系統の木でかつての王宮も寺院もボロボロになってましたし。 琉球王朝成立後の建物なのは間違いないので、例によって石組は極めて精緻なモノでした。何度見ても見事だなあと思う。 |