ホテルに帰還時の収穫。ええ、私はブレません。ちなみに同志の皆さんへのお得情報として、国際通りのドンキ地下はルートビア350oが1缶68円でした。ああ、素晴らしいと思いました。

この後、K宮さんに迎えに来ていただいて普天間の基地祭りに向かったのですが、まだ時間がある、という事でいくつか私の知らなかった観光地に連れて行っていただく。でもってこれが予想以上に凄かったのでした。



最初に連れて来ていただいたのがここ、那覇の泊港北側にある外人墓地です。
那覇にペリーが上陸したのがこの辺り、ということでこんな記念碑もあり。日本本土より先に来てますから、1853年6月6日に上陸となってます。ちなみにあくまで上陸の日であって、那覇港には5月26日には入港済み、以後は琉球政府に登庁と王への謁見を求めて交渉が行われていたのです。

ここからペリーは海兵隊二個中隊と士官40名を率いて武力外交とは何かを教育すべく首里城に向かうのでした。



でもって驚いたのがこれ。
外人墓地といっても戦後のアメリカ人か戦前に来た宣教師辺りのものだろうと思ってたんですが日付を見て驚愕することに。1853年7月24日って、それ最初のペリー来訪直後じゃないの。しかもミシシッピと書かれてますから、ペリーの乗船していた船の人です。

ただしペリーは7月3日には那覇を出港して日本に向かっているので、この日付が正しいならこの墓の主は琉球に置いて行かれた事になります。病気かケガで航海に伴うのは困難と判断されたのでしょうかね。
もっともペリーは日本からアメリカに帰る時も那覇に立ち寄ってるので、この時に収容するつもりで一時的に置いて行ったものだと思われますが。

つまりこのお墓、ペリーの黒船艦隊の兵隊さんのもなのです。そんなの、初めて見ました。
これだけ立派なところを見ると士官のように思えますがよく見るとLDSの文字があり、ひょっとしてモルモン教関係者?普通ならありそうな階級の表記も無いのでペリーの艦隊には布教目的でモルモン教関係者が乗ってたんでしょうかね。ちょっと謎ですが、本気で調べるとエライ事になりそうなので、この話はここまで。

ちなみに上の金属製墓名碑は後付けでしょうが、下の石板は当時のもののような気が。まさかこんなものが見れるとは思っておらず驚きました。
同じような日付のお墓がいくつかあり、当時の遠洋航海はホントに命がけだったんだねえ、と思う。



こちらはより簡素なタイプ。日付すらもなく、一般の水兵さんのお墓とかでしょうか。こちらは年が明けてから亡くなってますね。




その横にはこんなお墓も。
1816年だとペリー ストライクの37年も前で、肩書はイギリス人とのみ書かれてます。
ペリーの日記によると、彼の前年にはイギリスの軍艦が那覇港に入ってるそうですし、すでに7年近く沖縄に住んでるイギリス人宣教師にも会ってるので(ただしペリーはあまりいい印象を持ってない)、19世紀に入ってからは一定数のイギリス人が琉球に出入りしていたようです。

それにしてもすげえなこの墓地。初めて知る事が次々と出て来るザンス。


こちらの土饅頭式の墓地は朝鮮系の人のじゃないかと思うんですが確証は無し。
墓所の概念はあっても個人の墓、墓地という概念が無かった沖縄にこういった場所がある事も驚きですね。

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