■ホンダの黄金期へ
さて、今回からはホンダF-1の黄金期、6年連続でコンストラクターズチャンピオンのエンジンとなった第二期F-1の展示を見て行きます。
第一期の最後、水冷3000tエンジンの開発で活躍し、その前には久米さんと組んで無敵のF-2ヨーロッパチャンピオンエンジンを成し遂げたホンダのF-1番長、川本信彦さんがその復帰から最後に引導を渡すまで主導したのがこのホンダ第二期F-1でした。さらにそこに桜井淑敏(よしとし)さんというF-1史上を通じてもおそらく最高峰のエンジン部門の監督が登場し、恐るべき快進撃をホンダが成し遂げてしまうのがこの第二期です。
その終焉は本田宗一郎総司令官の死と共にやってきて、その段階でホンダの第四代社長に昇りつめていた川本さん自らその活躍に終止符を打ち込みます。まあ、ドラマ、ドラマなのがこの時期のホンダであり、F-1でした。今でもこの時期が個人的にはF-1が一番面白かったと思ってます。
この時期はホンダエンジンの活躍だけではなく、ピケ、セナ、プロスト、マンセル、と一癖も二癖もどころじゃない癖の強い天才、そして努力の苦労人一流ドライバーが次々と登場して来るのだから、そりゃ面白いわ、という時代でもあります。私が同時代人として、あるいは古い映像記録でレースを見て状況を把握してる、と言えるのは1984年から2003年までの20年間と2019年だけですが(この記事に執筆は2020年シーズン開幕前)、その中でホンダの全盛期の始まりであり、終焉の年である1986年から1992年までが最も面白かったと今でも思います。そんな時代を、ホンダコレクションホールの展示を中心に見て行きましょう。
1983年に途中参戦ながら15年ぶりのF-1参戦を果たしたスピリット ホンダ
201C(右)と、その翌年、1984年のデトロイトGPで17年ぶりにホンダエンジンに優勝をもたらしたウィリアムズ ホンダ
FW09(左)。
1983年は当初、スピリットチームからの参戦であり(最終戦のみウィリアムズ)、そのシャシーの設計はスピリットでした。ただし、ここはホンダが100%出資していたチームなので、第一期ホンダのローラ製シャシー&ホンダエンジンの組み合わせと同じようなものであり、事実上ホンダチームのF-1マシンでした。ホンダがエンジン供給専門に徹するようになるのは、同1983年の最終戦でウィリアムズにエンジン供給を開始してからとなります(この段階でスピリットF-1は解散)。
この第二期の特徴は、最初からF-1に殴り込んだのではなく、15年近い国際四輪レースの空白期間を埋めるため、最初はF-1の下のカテゴリーであるF-2への参戦から始めた点でした。これは後に第四期にまで繋がるホンダのF-1の歴史でも唯一のパターンになってます。
1980年にBMWエンジン全盛期、というか事実上、BMWエンジンだけで行われていたヨーロッパF-2選手権に、ホンダおなじみ途中参戦で復帰すると翌1981年には早くもドライバーズチャンピオンを獲得してしまいます。1982年には一度、チャンプを失うものの、その後、F-2というカテゴリが消滅してまう1984年までを二連覇、5年間で三度のチャンピオンを獲得と、12年ぶりに帰って来た国際レースで圧倒的な強さを見せるのです。
余談ですが、この時期、ヨーロッパと並んで唯一、F-2が開催されていたのが日本なんですが、両者の交流は無く、完全に別物として独立して開催されていました(ただし年間通算レース数は両者を合わせて数えてるので、訳が判らん事になっているから要注意)。この間、ホンダは両者にエンジンを供給しています。ちなみにF-2
亡き後はF-3000
と言うカテゴリが造られ、1984年から2004年までの間、F-1の下位カテゴリとして戦われました。
そのF-2の参戦で1981年にチャンプを獲るとF-1の参戦準備を並行して開始し、1983年にこれまた途中参戦でホンダが100%出資したチーム、スピリットからF-1にも復帰を果たします。
同年の最終戦からはウィリアムズにエンジン供給を開始、そして翌1984年には復帰二年目、本格参戦初年のデトロイトGPで一勝を上げてしまいます。このデトロイトGPでの勝利は多分に運もあり、決してぶっちぎりの速さを見せたわけでは無いのですが、それでも勝利は勝利です。参戦二年目でいきなり優勝は第一期と同じですが、この後、第二期ではエンジン供給に徹する事でその後の黄金期を築く事になるのです。
とりあえず、第二期初期、1984年までのホンダの活動を表にするとこんな感じになります。
かつてのブラバムチームの設計屋、トーラナック率いるラルトから、ホンダエンジンは1980年にF-2復帰を果たしました。これは1966年の時のツテによるものでした。そして今回もF-2では最初からエンジンのみの供与となっています。
ホンダではもはやおなじみ、シーズン途中からの参戦で、さらにその後も出走してないレースがあり、結局年間4戦だけして最終戦ドイツで2位に入ったのが最高位となります。ちなみにこの年のラルトは1台だけのエントリーで、そのドライバーはすでに26歳になっていた遅咲きの努力の人、あのナイジェル・マンセルでした。
後に1987年のウィリアムズ・ホンダで悲劇のドライバーとなり、そして1992年にウィリアムズ・ルノーを駆ってホンダの黄金期にトドメを刺したあのナイジェル・マンセルです。ホンダが国際レースに復帰した年の最初のドライバーがマンセル、というのも何とも因縁めいたものを感じます。ただし彼はようやくその才能を認められ、翌1981年からF-1ドライバーとしてロータスに移籍してしまうのですが。その後、世界チャンピオンを獲るまで11年間も掛かったわけで、ホントにこの人は苦労人なんですよ。レース中に事故った相手のドライバーを殴りに他のチームのピットに乗り込むとか、髭と髪型と性格がスターリンに似てると言われたり、いろいろ無茶苦茶な人ですけども(笑)。
その後、翌1981年には年間4勝ながらも早くもF-2のヨーロッパチャンプをラルト ホンダは獲ってしまいます。この時代のF-2にはコンストラクターズ、チームのチャンピオンが無かったようなので、ドライバーズチャンピオンとしてジェフ・リース(Geoff
Leess)がこれを獲得しました。ただしチームとしても総合得点ではトップです。ちなみにラルト以外は全てBMWエンジンで、唯一のホンダエンジンのチームがチャンプになってしまった事になります。ちなみにリースは後にF-1ドライバーになるのですが、弱小チームからのスポット参戦(特定のレースのみ走る)ばかり、最終的には7位が最高と言うあまりパッとしない成績で終わりました。
ちょっと余談。
F-1への登竜門という面があったF-2ですが、そのチャンピオンは意外にF-1では活躍できず、F-1でもチャンプを獲ったドライバーは一人も居ません。さらに言えば1977年のルネ・アルヌーがF-1に昇格後、ルノーとフェラーリで通算7勝を上げたのを最後に以降のF-2
チャンプは誰一人としてF-1では一勝もできずに終わっています。この点は後のF-3000
も同様で、20年間のF-3000チャンピオンで、F-1でチャンプを獲ったドライバーは一人も居ません。不思議な、というかそもそも登竜門として欠陥があるんじゃないの、というか、そんな話でした。
話を戻しましょう。
次の1982年は四輪レースチームのボス、F-1番長 川本さんがもっと圧勝したい、という事でラルトに加えてホンダが100%出資したスピリットチームを設立、2チーム体制で臨むのですが、これが裏目に出て年間3勝に終わってしまいます。3勝したのはスピリットから出走していたティエリー・ブーツェン(Thierry
Boutsen)で、後にF-1ドライバーになりホンダ無き後のウィリアムズで1989年、1990年に計3勝を上げるドライバーです。どうもホンダのF-2ドライバーは後にF-1でホンダの敵に回るパターンが多いような…
そして翌1983年はスピリットチームがF-1参戦に回ったため、再びラルトの1チーム体制となり、12戦7勝。半分以上のレースで勝利し、再びチャンプを奪回します。この時に優勝したのはジョナサン・パーマー(Jonathan
Palmer)でした。この人も後にF-1ドライバーになるのですがチーム運に恵まれず、生涯最高位4位に終わってます。
F-2最後の年、翌1984年は11戦9勝と圧倒的な強さを見せ、マイク・サックウェル(Mike
Thackwell)が最後のF-2チャンプとなりました。サックスウェルはパーマー以上に恵まれないドライバーでF-1には数戦だけスポット参戦したのものの全てリタイアか予選敗退、ル・マン24時間耐久に参戦しても最高9位で後は常にリタイア、とほとんど実績を残さないままレース界を去る事になります。
ちなみに1984年に年間二位になったのが同じラルト・ホンダのロベルト・モレノ(Roberto
Moreno)でした。この人も後にF-1ドライバーになったものの、パッとしないで終わりました。ただしベネトン時代の1990年F-1日本GPで同僚のピケが優勝、それに続く二位に入ります。マクラーレン、フェラーリの二強時代に、ベントン、そしてフォードエンジンのワンツーという奇跡を鈴鹿で演じたため、日本人では意外に知ってる人が居るかもしれません。
この年、本来のベネトンのドライバーはピケとナニーニだったのですが、ナニーニが直前にヘリコプター事故で腕を切断という大事故を起こして急遽、モレノが代役で走ったのでした。さらにマクラーレン ホンダのセナとライバルのフェラーリのプロストが接触でリタイア、マクラーレンのセカンドドライバーのベルガーもスピンでリタイア、残ったフェラーリのマンセルもトラブルでリタイア、という前代未聞の波乱のレースで、そういった意味でも印象に残るモレノの二位ではありました。
こうして見事な成績に終わったホンダのF-2参戦でしたが、その途中、1983年からF-1にも復帰して来ます。ただし途中参戦だった1983年のスピリットチームはあくまでテストといった位置づけで、その後、翌1984年からウィリアムズと組んで本格的な参戦が始まるのです。そしてその1984年にケケ・ロズベルグにより早くも一勝をあげてしまったのは、すでに見た通りです。
その後、1984年の後半からはいよいよ桜井さんがF-1部門の「総監督」に就任、以後の1987年に引退するまでに無敵ホンダの体制を固めてしまい、最終的に1986年から1991年まで、6年連続でチャンピオン エンジンとなります。ちなみに厳密にはコンストラクターズ チャンピオンはチームに与えられるので、エンジンにおけるチャンピオン部門はなく、チャンピオン エンジンとして記録が残るだけなのですが。
最初に、その1985年以降の状況をまとめておくと以下の通り。ただし通算優勝数は1984年の一勝を含んでます。
といった感じで、まさに快進撃と言う他無いのホンダF-1第二期を今回から追いかける事になります。では次のページから少し詳しく見て行きましょう。
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