ずらり並んだホンダのF-2軍団。
一番奥がすでに紹介した1966年の無敵マシン、ブラバムBT18ホンダ、真ん中が日本で開催されていたF-2に1981年に参戦したマーチ811ホンダでこれもチャンピオンマシン、そして一番手前がF-2最後の年、1984年にヨーロッパF-2でチャンピオンとなったラルトRH-6-84 ホンダ。ちなみに真ん中のマーチ811はウィングカーで、このためサイドポンツーンが薄くて長細いのを見て置いて下さい。

既に見たように1968年にF-1から撤退、これによってホンダは2輪、4輪、全てのレースから撤退してしまった事になりました。
その後、1969年にあの空冷エンジン搭載のH1300 が発売され、これが売れずにホンダの経営は危機に追い込まれます。さらに低公害エンジンの開発、後のCVCCに社運をかけ、研究所全体がそれに掛かりきりになるなど、もはやレースなんてやってる場合では無かったのです。そんな中でホンダの起死回生の逆転ホームランとなるシビックが1972年に発売となり、そこからさらに低公害のCVCCエンジンによってホンダはアメリカでも日本でも、乗用車メーカーとしてゆるぎない地位を手に入れて行く事に成功します。

その間、ホンダの体制にも大きな動きがありました。
空冷エンジンにこだわり続けたホンダのカリスマであり、技術部門の絶対君主であった本田宗一郎総司令官が1971年4月に技術研究所の社長を引退、さらに2年半後の1973年10月にはシビックの大ヒットで経営危機の回避が明確になったホンダ本社の社長からも彼は身を引きました。どちらも後任にはまだ40代だった河島さんが就任しています(1977年まで両者兼任。1977年以降ホンダ本社社長に専念)。その後、河島社長時代になったホンダは1976年に、より大型でアメリカ市場の主力商品となるアコードを発売して大ヒットを記録、ようやく経営が安定してきます。そして大型の開発案件を乗り越えた研究所にもわずかながら余裕が出て来るのです。ちなみにホンダエンジン部門の重鎮、1500tF-1エンジンを設計した新村さんはあと3年本田宗一郎総司令官が社長だったらホンダは潰れてた、と発言してますから、このころはホントに経営的に追い込まれていたのです。

ちなみにF-1番長川本さんは、それでもその間にいろいろ動いてました(笑)。
まず本田宗一郎の長男である本田博俊(ひろとし)さんが1971年末ごろから、レーシングカーメーカーの設立を計画しているのを聞きこれに関与します。これが後の株式会社「無限」でした。ちなみにホンダが第二期F-1から撤退した後もエンジン供給を続けたのがこの無限で、1992年から2000年までの9年間でF-1通算4勝を上げてます(1998年のベルギーGPでは1-2フィニッシュまで達成してる)。

博俊さんは本田宗一郎総司令官の世襲制と親族採用の禁止方針からホンダには入れず、かといって働かなければ食っていけないという身分でも無かったため、大学卒業後は海外を放浪したりして、30代になるまで遊んで暮らしてた人でした。彼は友人知人に日本のレース関係者が多く、このためレースマシンの制作会社の設立を計画します。
この話にレース関係者を通じて友人となっていた川本さんが乗るのです。最終的にはホンダを辞めてこちらに行く、という事まで考えていたようですが、この話は簡単には進まず、以後、2年近くうやむやな状態が続いてしまいます。


それでもレースがやりたい川本さんは本田宗一郎総司令官が研究所を去り、さらにCVCCの開発メドが立った1972年秋までの段階でホンダを退社する決意を固めました。レースがやりたくてしかたない上に、ホンダの主力となった低公害型のエンジンはレース用エンジンとは180度違う方向の技術でしたから不満が鬱積していたのです。さらにそれまでの自由な雰囲気だった研究所に、本田宗一郎総司令官の引退後、事務的で堅苦しいルールが増えたのも不満でした(ただしこの引き締めが無ければホントにホンダは潰れていた可能性が高い)。このため本田宗一郎司令官が研究所社長を引退し、ようやく帰国できていた(笑)第一期F-1監督の中村さんに破竹の勢いでF-1界を席巻していたコスワース社に行きたいから、紹介状を書いてくれ、と頼みに行きます。

F-1時代に広い人脈を築き、さらにヨーロッパ駐在中にもその輪を広げいてた中村さんはコスワースにもパイプを持っていたからです。でもって、これを聞いた中村さんもエンジン設計部門のエースの一人が退社したい、と言ってるのを引き留めず、それどころか「オレも若かったらそうした」といって快諾してしまうのです。すげえな、ホンダ、という感じですが、この後の展開もまたスゴイのでした(笑)。

とりあえず紹介状を手にした川本さんは、後に無限の設立に参加、その主要メンバーとなる木村昌夫さんと共に1972年末に渡英、コスワースの設立者の一人であるキース・ダクワースに会い、採用の約束を取り付けてしまいます(ホンダの人間なんだからバイクのエンジンの設計もできるとハッタリをかましたりした。久米さんはバイクもやっていたが実は川本さんは一度もやったことが無い)。もしこのまま川本さんがコスワースに行っていたら、この後のF-1の歴史は大きく変わったものになっていたはずです。が、この段階でまだ正式にはホンダを退社して無かった彼は、帰国後、上司であった久米さんにホンダを辞めてコスワースに行く、と報告に行きます。

この時、事前にその動きを知って驚愕していた久米さんですが、エース級の人材である川本さんを逃がす気はさらさらありませんでした。このため、すぐには返事はできないとして彼を追い返してしまうのですが、川本さんは辞める気満々だったのでその翌日から出社を拒否、研究所に出て来なくなってしまいます。ここから両者の持久戦が始まるのです。

その後二カ月近く、両者は何の連絡も取りあわず、形の上では川本さんは宙ぶらりんで放って置かれました。これは自身も会社がいやになって二度失踪した経験を持つ(笑)久米さんの作戦で、家で何もしないでぶらぶらしてると冷静になって頭を冷やすだろうと睨んだものだったようです。さらに、たまたまなのか、久米さんがどこかで手を回したのか進展が無かった博俊さんのレース会社、「無限」の設立が、この段階で急遽決まります。

これでイギリスまで行かなくても無限に行けばいいかも、と川本さんは考えたのですが(実際、イギリスに同行した木村さんは無限設立に参加)、久米さんはホンダから手放す気はさらさらありませんでした。このため、ついに二カ月後、川本さんから連絡が入ると、これを自宅に呼び出し「会社の仕事をキチンとやるなら無限に出入りする事を大目に見る」という約束をし、川本さんにホンダの残留を決意させます。
同時にホンダのエンジン部門の責任者になっていた久米さんは後継者に川本さんを考えており、その事を伝えて残留を決意させたのだと思いますが、その辺りは記録がなくよく判りませぬ。

こうして川本さんは2カ月間の欠勤からホンダに復帰ます。本人も「よく2か月もクビにしないで黙って見ていてくれだものだ」と言ってますが、この辺りが当時のホンダの凄さなんでしょうね。ついでにこの時期、家でやる事がなかった川本さんがやっていたのがレース用エンジンの設計図作成で、おそらくコスワースへの手土産とするつもりだったそれらが、後のホンダF-2復活の時の基本設計として役に立つことになるのです。

ちなみにホンダへ復帰した後、川本さんが手がけたのが6気筒直列2000tのCVCCエンジンの開発でした。これはホンダがシビックの次に計画していた大型車のためのものでしたが、当時のホンダの手にはあまり、従来通りの4気筒で排気量を上げたCVCCエンジンを積んだアコードが開発される事になるのです。結局、ホンダが6気筒エンジンをデビューさせるのは12年も先の1985年のレジェンドのV6エンジンからになりますが、このレジェンドのV6エンジン開発担当があの市田勝巳さんで、後にホンダの無敵F-1ターボエンジンを完成させる人なのでした。



何も書くことがないので、四輪展示車の紹介では無視した1985年発売のホンダ初の高級車、レジェンド。
ホンダ初の6気筒エンジン、2500tのV型6気筒エンジン搭載車です。そのエンジンの開発責任者が後の無敵ホンダF-1ターボエンジンの生みの親、市田さんとなります。ちなみにコレクションホールの解説では「F-1エンジンの技術によるV6…」と書かれてましたが、実際は逆で、このエンジンの開発が終わった後に市田さんはレースエンジン開発チームに復帰、無敵のF-1ホンダターボを完成させる事になります。それまでは川本さんの下でF-2のエンジンの開発に関わっていただけですし、1984年までのホンダF-1エンジンはその旧式のF-2エンジンの拡張版でしかなく、特に見るべき技術はないのです。そもそもあっちはターボエンジンですしね。

そして1973年の夏に無限が設立されると、川本さんはこれに積極的に関与して行くのですが、最初のターゲットにしたのが1973年に日本で設立された小排気量のフォーミュラレース、全日本FJ1300 でした。1978年まで続くこのカテゴリは量産用自動車のエンジンをベースに出来る排気量で、実際に例の2か月間の自由時間中に川本さんは初代シビックエンジン(CVCCになる前のもの)を基にしたエンジン設計を完成させてました。

が、そのエンジンをキチンとまとめるにはさらに時間が必要なのに川本さんは多忙で動けず、かといって設立されたばかりの無限にエンジン設計をできるほどの人材はいません。そこですでに主任設計者の地位にあり、さらに久米さんから無限の仕事に関わるのを大目に見る、という言質を取っていたのを利用し、ホンダの若手の設計屋を無限に派遣する事にします。

川本さんがこの件を相談したのが後のF-1「総監督」、当時エンジン開発部門の部下であった桜井さんで、両者はCVCCの最初の試作エンジンを設計した時、一緒に仕事をしていたのです。その桜井さんが推薦したのが、量産車の開発担当ではなく、研究チームに居た当時26歳の市田勝巳さんでした。市田さん自身は全くレースの経験は無かったのですが、ある日突然、川本さんに呼び出され無限に行けと宣告されます。

この時代のホンダですから(笑)細かい辞令は何も無く、いいから行って仕事を手伝ってこい、と訳の分からんまま送り出されまったようです。本人は不満だらけだったらしいですが、これをきっかけに市田さんはレースの世界にのめり込んでしまいます。半年ほど無限に缶詰めにされた後にホンダに戻るのですが、レースの魅力を知った市田さんは後に自腹でヨーロッパに旅行していろんなメーカーの工場を見学したり、最後はトヨタのエンジンをベースにしたF-2エンジンの開発にまで関わろうとし、見かねた川本さんによってホンダのF-2レースエンジン開発チームに引き抜かれる事になるのでした。

そうして完成した無限のFJ1300用エンジンは川本さんが手配してホンダの研究所で組み立てられ、11月の鈴鹿のレースでデビュー、いきなり初勝利を収めてしまいます(厳密には上位カテゴリのF-2000との混走だったので総合では5位。FJ1300の中ではトップ)。ただし、この後はエンジンが壊れまくるという不調に悩まされ続け、結局、まともに勝てるようになったのは1974年の後半からとなりましたが。
が、こうしてホンダの中で密かにレース活動の基礎が築かれて行き、特に市田さんがそこに巻き込まれたことで後のF-1黄金期の基礎が造られ始めます。

こうした中で技術研究所社長が、ホンダ本社の社長と兼任していた河島さんから、久米さんに引き継がれる事になります。久米さんは川本さんのように表立って動きまくる人ではなかったものの、レースの魅力にとりつかれていた一人で、ホンダの経営が回復すると河島社長にレース復帰の訴え続けていた人でした。そんな人物が本田技術研究所のトップに就いたのです。そして久米さん跡を継ぐ形で、川本さんがエンジン開発部門の責任者に就任します。

ちなみにホンダの二代目社長となった河島さんは本田宗一郎総司令官とは真逆の現実主義的な人でしたから(正反対の性格だったからこそ本田宗一郎総司令官の片腕になれたのだ)、そもそもレースにはそれほど乗り気ではありませんでした。
後に2001年、自動車技術会の会誌で最初の二輪GPのエンジン設計担当者であり、1500t時代に最初のF-1エンジンも設計した新村公男さんと河島さんが対談しています。その中でホンダのマン島TTレース参戦の理由を問われ「他に宣伝手段が無かったから」「広告出すほどのネタが無かったので」と述べ、後に優勝を収めると「監督(河島さんである)のところに総務部長から電報が来て「おめでとう、ありがとう、おかげで株価が上がった」と、これが本心なのよ」といった発言をしています。

現場に居て、それを肌で感じていた人の発言ですから、一面で真理なのですが、本田宗一郎総司令官、中村監督、久米さん、川本さんといった本気でレースを愛し、死ぬほど勝ちたくてしかたがない人たちがいたのもまた事実でした。でなければホンダエンジンが初めてF-1コンストラクターズチャンプのエンジンとなった1986年、最終戦のオーストラリアGPを訪問した本田宗一郎総司令官が、スタッフを前にして正座し「われわれの夢をつなげてくれてありがとう」とお礼を述べて頭を下げた事は全く理解できないでしょう。こういった人たちと河島さんの考えの間には明らかに溝があります。よって河島さんが本社と技術研究所の社長を兼任してる間は、レース参戦の話はほとんど進みませんでした。
ただし河島さんもやるからには勝て、参加するだけなら無意味だ、という闘魂の人ではあり、インタビュー当時の全く勝てないホンダF-1第三期の現状に対し「今は人、物、金、時間があって何でレースに勝てないんだろうね」と不満を漏らしてます。

さて、研究所社長となった久米さんのレース復帰運動によりホンダの技術部門がレースを再開する動きは本格化します。
まず動いたのが、すでに見たように二輪専門の朝霞研究所(HGA)で活動していた入交さんでした。広報面、そして新たな技術開発の必要から二輪世界GPへの復帰を望んていた彼の活動により、1977年10月31日に技術研究所において、二輪、四輪のGP復帰会議が開かれたのです。この席で二輪世界GP500tクラスへ1979年から復帰という件はあっさり決まりました。ところがF-1への復帰は会議参加者のややノンキな議論に激怒した川本さんが、F-1はそんな甘い世界では無いと反対を表明、F-1番長自らが反対する中、他に賛成者も現れず、そのままお流れになってしまいます。

が、川本さん自身はレースを諦める気はさらさらなく、F-1ではなくその下のカテゴリであるF-2に狙いを絞ってました。このため会議後、例の2か月の出社拒否中にまとめたエンジン設計図に手を入れ完成させています。その設計図を1977年末に久米さんに見せた所、不機嫌そうに何も言われないものの、少なくとも反対はされなかったので川本さんは設計を独自に進める事にしてしまいます。エンジン部門の責任者の地位をフルに利用した、とも言えるでしょう。ただし会議での反対の結果、正式な予算はゼロ、よって人も金も無い中での出発となるのですが、それが後のホンダ黄金期を築く始まりだったのですから、やっぱり情熱とやる気ってレースの上では大事なんだよな、と思います。

ちなみに1978年初頭に河島社長がホンダのレース復活宣言を出し、これがホンダF-1活動再開の始まり、とする資料もありますが、この段階では四輪国際レース参戦の計画は無かったはずで、おそらくこれは二輪部門の世界GP復帰に触れだものだったと思われます。
実際、その後も川本さん一人で密かに図面に手を入れる、という時期がしばらく続きました。転機は無限に一時出向していた市田さんが、会社に秘密でトヨタのF-2エンジンに関わろうとしてる、という噂を川本さんが聞いたことでした。驚いて本人を呼び出して確認したところ、これをあっさり認めたため、そんな事するならホンダでF-2エンジンの開発をやれ、と命じてその計画に巻き込んだのです。市田さんは大喜びでこの申し出を受けるのですが、川本さんの個人事業のような計画だったため、予算、人員の欠乏で以後、苦労の連続を味わう事になりました…。

結局、本格的なエンジン設計は川本さんが最初に久米さんに図面を見せた1年後、1978年末から開始され、川本さん、市田さんがホテルに籠って設計を開始しました(ホンダの伝統でなぜかエンジン開発チームは会社ではなくホテルに缶詰めになって基本設計の図面を描く)。途中で作業が追い付かなくなり、若手の設計者だった北元徹さんが呼び出され、以後もこの三人だけで設計チームは動いてゆきます。最終的に2週間かかって設計は終了、翌1979年から正式にF-2エンジン開発チームが発足して、その細部のツメと試作が開始されます。ただしこの段階でもまだ会社の公認では無かったはずで、予算とかどうなってたのか、よく判りませぬ。

どうやら正式に会社の仕事となった後も細々とした活動だったため、翌1979年7月にようやく試作エンジンが完成します。
が、この時、いくらやってもエンジンに火が入らず、設計担当の責任者だった市田さんは頭を抱えたそうな。以後、夏休み中も一切何もせず、設計を洗いなおすのですが、どう考えても設計ミスが見つけらませんでした。このため結局エンジン組み立てチームにお願いして、一度組み上がったエンジンを分解、再組み立てを行ったところ、カムの取り付けが設計図と違っていた事が判明、これを修正して無事、その始動に成功しています。レース用エンジンなどとは10年以上無縁だったホンダでは、そういったミスも出たようです。
ちなみに当時F-2の事実上の標準エンジンとなっていたBMWエンジンは280馬力でしたが、ホンダの新型エンジンは当初からこの馬力を達成していたとされます。

こうしてエンジンが完成すると、その整備調整のメカニック担当して、第一期F-1の生き残り、土師(はじ)守さんがチームに参加、ほかにも数名の整備、組み立てのスタッフが付くようになりました。後にF-1参戦後も土師さんはエンジンの整備と組み立てを中心に現場監督して活躍する事になります。こうして、ようやくチームとしての体裁が整いつつあったわけです。

その後、設計修正を重ねた結果、このエンジンは300馬力まで出るようになり、翌1980年からのF-2参戦を川本さんは考え始めます。ちなみにこのエンジン、最終的には330馬力まで出たようです。ただし本格的に参戦を模索し始めたのはすでに1980年になってからでした。とりあえずブラバム時代に知っていた設計屋のトーラナックがラルトの名でF-3のチームを運営しており、これに声を掛けようと考えたのです。ただし、この件を中村さんに相談したところ、彼はトーラナックをあまり好きではなく、遠回りに反対され、二人でヨーロッパに出かけてラルト以外にもいくつかのチームと交渉する事になりました。どうもトーラナックは人種差別主義者的な面があり、日本人のホンダスタッフはあまりいい印象を持って無かったようです。久米さんも「イヤなヤツだった」とまで言ってますから、そういった人物だったのでしょう。

結局のところ、この訪問でフランスのどこかのチームかイギリスのトーラナック率いるラルトか、という二択になるのですが、最終的な決断を相談された久米さんが「フランス人はよく判らん」としてトーラナックのラルトと組むことが決まります。ただし、トーラナックもどうもホンダの計画にあまり乗り気で無かった気配があり、このため後のF-1進出ではこれとは組まず、さらに1984年にF-2というカテゴリが無くなりホンダの撤退が決まると、そこで手切れとなりました。

こうしていよいよ1980年途中からのヨーロッパF-2参戦が決定したわけです。とりあえず、今回はここまで。


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