MP4/4とそのエンジン、RA186E。

1987年前半までで市田さんはF-1チームから外れているので、このエンジンの開発には関与してないはず(後に1990年の自然吸気エンジンの開発チームに呼び戻される。その間は二輪レースのHRCに籍を置いていたが何をしてたのかは不明)。

じゃあ誰が設計を担当したのか、というと、正直どうもよく判りませぬ。F-1 番長川本さん世代のエンジン設計を手伝った北元徹さんが関わった、という話もあるんですが確認できず。
ちなみに翌1989年から投入される事が決まっていた自然吸気V10エンジンは桜井さんがあえて30歳以下の若手チームに担当させてるのですが、最初のV10エンジンは極めて悲惨な性能のものになってました。後に、それを十分に改良して経験を積ませた後、新たに再設計させて1989年のエンジンとしています。

とりあえず1988年のエンジンはクランク軸を28o下げて重心を下げる、という大改造を受けており、歴代ホンダのターボエンジンの中でも大きな変更が加わっているものの一つですから、ある程度のベテランの人が担当してると思うのですが…

そしてマクラーレン側の車体設計を担当したのはブラバムから移籍して来たゴードン・マレー(Gordon Murray)でした。
1981年と83年、ブラバム時代のピケがドライバーズチャンピオンを獲った車は彼の設計でした(コンストラクターズチャンピオンは獲れなかった。ちなみに83年はBMWのF-1エンジンが獲った唯一のタイトル。すなわちBMWは未だにコンストラクターズチャンピオンは獲った事がない)。
マクラーレンにはスティーブ・ニコルズというチーフデザイナー、設計責任者が居たので、彼との競作、という事になってますが、この平べったく全高が低いデザインは明らかにマーレ―による設計でしょう。

ついでながらマーレ―はこの史上最強F-1マシンを設計した後、マクラーレンの市販車設計に活動を移してしまい、以後、F-1の設計にはあまり関わっていない(手伝いはしてる)、というちょっと不思議な人です。ちなみに88年はマーレイもマクラーレンのピットに入っており、ロン毛に髭のマーレ―はTV中継でやけに目立った存在でした。

ここで1988年のマクラーレンの圧勝ぶりを確認して置きましょう。ちなみにこの年もロータスはホンダエンジンを供与されていたのですが、一勝もしていないので無視させてもらいます(手抜き)。

GP  アラン・プロスト   アイルトン・セナ
1.ブラジル 4/3  優勝  失格
2.サンマリノ 5/1  2位  優勝
3.モナコ  5/15  優勝  リタイア
4.メキシコ 5/29  優勝  2位
5.カナダ 6/12  2位  優勝
6.デトロイト 6/19  2位  優勝
7.フランス 7/3  優勝  2位
8.イギリス 7/10  リタイア  優勝
9.ドイツ 7/24  2位  優勝
10.ハンガリー 8/7  2位  優勝
11.ベルギー 8/28  2位  優勝
12.イタリア  9/11  リタイア  10位
13.ポルトガル 9/25  優勝  6位
14.スペイン 10/2  優勝  4位
15.日本 10/30  2位  優勝
16.オーストラリア 11/13  優勝  2位

何度も書きますが16戦15勝、セナ8勝、プロスト7勝となっています。さらに言うならワンツーフィニッシュが10回とこれもスゴイ数字です。ついでにサンマリノとオーストラリアではピケが3位に入ってるのでホンダのワンツースリーも2回ありました。残念ながら4位まで独占は一度もなかったのですが…。中嶋さん…
ちなみにポールポジションも15回、イギリスを除くすべてのレースで獲得しています。

1988年のドライバーズチャンピオンのポイント計算も上位11戦までが有効でした。よってリタイア二回を除くと全て1位か2位だったプロストの方が総得点では上なのですが、上位11戦となると優勝回数が1回多いセナが有利となり、彼が初めてのドライバーズチャンピオンを獲得しています。

第一戦ブラジルのセナの失格は予備のスペアカー(Tカー)での出走を問われたもの。
セナは地元ブラジルという事もあって気合が入っていて、このレースではポールポジションを取っていました。ところがスタート前のフォーメーション(パレード)ラップでギア周辺に問題が発生、スタート位置に着いたものの出走出来ず、ピットスタートとなります。この時、問題の部分の修理が間に合わないと判断したチームがセナをスペアカー(Tカー)に乗せてしまったのです。

が、フォーメーションラップが終了し、準備完了を示すグリーンフラッグが振られた後に車を変更する事はルールで禁止されているため審議対象となり、最終的に黒旗(停止命令)が出されて31周目の段階で失格となってしまいます。ちなみにこのレースのマクラーレンはいろいろミスが多く、しかもそのミスが全てセナに起きた、という気の毒さでした。

ちなみにセナは母国ブラジルグランプリで意外に勝てず、11回も走りながら2勝のみ、マクラーレン・ホンダ時代ですら1勝しかしてません。
ついでに第二の母国(言語が共通語)とも言えるポルトガルでは1985年にF-1初優勝を決めながら、以後、一度も勝てず、生涯1勝で終わってます。ブラジルではポールポジションなら5回も取ってるんですけど、なぜか勝てなかったのは気合が入り過ぎたからでしょうか。この辺り、鈴鹿では意外に勝ってないホンダエンジン(1988と1991年の2勝のみ)に似てる気もします。
逆にセナが得意としていたモナコなんて通算で6勝、ベルギーでも5勝してますから、天才でも得手不得手はあるようです。ついでにセナのライバル、プロストはなぜかブラジルに強く、通算6勝を収めています。プロストは地元フランスでも通算6勝を上げてますから、なるほど“教授”らしいプレッシャーと関係ない走りなんでしょうね。

話を戻しましょう。
序盤の第7戦フランスGPまではプロスト4勝、2位3回、対してセナは3勝、2位2回と優勝回数でも獲得ポイント数でもプロストが上回っていたのですが、その後第8戦イギリスからセナが4連勝を決め、一気に優位に立ちます。その4連勝の後に運命のイタリアGPがあり、ここでもセナは残り2周までトップを走っていました。誰もがセナの5連勝を確信していたと思います。

ところがこのレースにマンセルの代理としてウィリアムズから出走していたフランス人ドライバー、シュレッシーがシケインでセナの車と接触、リタイアに追い込んでしまいます。セナは完走扱いにはなったものの10位に終わってます。ただしこの接触事故、セナの方も周回遅れのシュレッシーの車をシケインの途中という変な場所で追い抜きに行っての事故でしたから、彼だけを責めるのはちょっと酷でしょう。もっとも、これがなければ16戦全勝という前代未聞の記録が生まれていたのですが…

この結果、フェラーリのベルガーが優勝、二位にも同じフェラーリのアルボレートが入り、地元イタリアでワンツーを決めてしまいました。
ちなみにこのシュレッシーは以前も書いたように、ホンダの3000t 空冷F-1 RA302で事故死したあのシュレッシーの甥にあたります。なにか宿命的なものを感じなくもない部分です。

そしてこのイタリアGPの後、プロストが二連勝、セナはその間に表彰台にすら上がれないという予想外の展開が発生、ドライバーズチャンピオンの行方が混とんとした中で、二年目の日本GPが開催されました。

ここでセナはポールポジションを取りながらスタート時にエンジンがストールして13番手まで落ちる、という予想外の展開となります。その後、セナは怒涛の追い上げを開始、28周目にトップを走っていたプロストをストレートで抜き去るとそのまま逃げ切り1位でチェッカーを受け、初のドライバーズチャンピオンを決めたのです。この年も本田宗一郎司令官は観戦に来ていたはずなので、初めてのホンダエンジンの勝利を目の前で見る事になりました。
この時の劇的な走りと、ホンダのエンジンが目の前でチャンピオンを決めた事でセナは日本で熱狂的な人気を獲得する事になるのです。

実際、1992年のモナコと並んで、セナのベストレースとされる事が多いのが1988年の日本GPで、見事なレースだったと言えます。その見事なレースでドライバーズチャンピオンを決めたため、後のインタビューなどでレース終了後に“I saw god”、私は神を見た、とまでセナに言わせているのです。セナは信心深い人物でもあったので、そういった発言もあるだろうな、と思いますが、確かにそれほどの内容でもありました。


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