ではMP4/4を少し詳しく見て置きましょう。
MP4の意味は既に見た通りで、その4番目の車、という事になります。ロン・デニスは1981年から指揮を採ってますから計算が合いませんが、それは初代のMP4(MP4/1)が1981、82、83年と3年も使われ、次のMP4/2も同じく84、85、86年とこれまた3年も投入されたため。
当時は一度完成した車体(シャシー)を改造しながら複数年使う、というのは珍しくなかったのですが、チャンプまで獲った上位チームでここまで使いまわしたのはさすがに珍しい気がします。ちなみに1987年から投入されたMP4/3も当初はターボエンジン時代最後の1988年まで使う気だったのですが、エンジンがホンダに切り替えになった事、車体の制作規則(レギュレーション)が変った事、ゴードン・マーレ―をせっかく採用したんだから仕事させようと思った事(笑)などから、このMP4/4が制作されたのです。
当然、翌年からは自然吸気3500ccエンジンに切り替えですから、この車も1年しか使えず、翌1989年にはMP4/5を投入して来ます。なので3年に渡り毎年新型マシン投入という、マクラーレンらしからぬ豪華さだったのですが、レギュレーションもホンダのV10エンジンもそのままだった翌1990年はMP4/5を改良したMP4/5Bで戦っております…。
展示の車はゼッケン12番ですからセナの車で、解説によればセナが4連勝を決めた第10戦ベルギーGP仕様との事。ここのF-1の細かい素性はいろいろ怪しいのですが(笑)、間違いなく本物ではあるので、これ以上の詮索は無しにしましょう。
歴代ホンダのF-1の中で、このMP4/4はかなりカッコよく、個人的にはハーベイ・ポスルスウェイト設計によるティレル・ホンダ
019の次に好きなホンダエンジン搭載車となっています。
先にも述べた低く絞り込まれた車体はマーレイのデザインの特徴で、後ろに見えてるウィリアムズのどこかモサっとした機首部とはだいぶ印象が異なります。
斜め後ろから。カッコいいです。
この1980年代末ごろからF-1の空力は徐々に複雑になって行きます。気流を調整してより大きな降力、ダウンフォースを稼いでタイヤの接地圧を上げる方向性から、もっとも少ない抵抗でもっとも大きなダウンフォースを得る、という方向に進化して行くわけです。が、この時代のF-1はまだそこまで複雑ではなく、ウィング周りにも車体周りにも余計なものは一切付いて無い簡素なものになっています。この状態が一番カッコいいと思いまする。最近のF-1はアマゾンの毒蛾がアンドロメダ病原体によってメガ進化したようなものばかりで、どう見ても美しくはないですからね。
ウィリアムズやロータスの車にあったカニの目のようにサイドポンツーン上に飛び出したツインターボ用の左右の吸気口が無いのは、ラジエター用空気取り入れ口から吸気するようになってるから。ただしこうなったのは第9戦のドイツからで、それまではマクラーレンもカニ目式の吸気口を採用してました。
この後期型は地元第8戦イギリスで最初にサーキットに持ち込まれていたのですが、この時は本選では使われてません。ちなみにイギリスGPは1988年で唯一ポールポジションを獲れなかったレースなんですが、この点が何か影響を及ぼしたのかは不明。
サスペンション周り。機首部下がカーボン素地むき出しの黒地なのも、この車の特徴です。
写真だとハンドルを切るのに使うステアリングロッドが見えませんが、ダブルウィッシュボーンの上部V字支柱に隠れてるからで、ちゃんとあります。斜め下に延びてる細い一本棒の先の車体中にスプリングが縦置きで入ってます。
ちなみにサスペンション付け根部分だけ、フタ構造になっていて、横のネジで取り外しができたようですが、この理由は不明。明らかにフタ部分だけ材質が異なるようにも見えますが、これもよく判らず。ちなみに光の角度によってはこの部分も他のカーボン地と同じようにも見えます。
サイドポンツーン回り。ラジエターは単純に横向きにむき出しとなってます。これもフタをして露出面積を調整できました。
このタイプではラジエターの内側にターボ用の吸気ダクトが通ってるはず。
運転席。機首部が細く絞り込まれているため、かなり視界のいいものになっています。それがメリットになるはか判りませんが。
1988年の段階で、アナログの丸いメーターは既に無くなっていました。ハンドルの上にある横長のパネルがエンジン回転計です。その下に液晶モニタがあるんですが、用途は不明。ハンドルの中にある右の青いボタンはここぞという時使うブーストボタン。エンジン馬力を瞬間的に上げるものらしいですが、ターボの過給圧は規定で動かせませんから燃料を濃くするとかですかね。左の赤いボタンは無線用。ついでに正面パネル右側についてる青いランプは燃料の、赤いランプはオイルの警告灯。
ハンドル右下には6速のH式のシフトレバーが見えてるのにも注意。当然、床にはクラッチ操作のためのペダルもあります。
近代F-1の変速装置、ハンドル裏にある左右の板を叩いてギアを変える、クラッチ操作なしのセミオートマ、“パドル”シフト(paddle
shift)が登場したのは1989年のフェラーリからですので1988年のマクラーレンには普通の乗用車のようなシフトレバーがありました(パドルシフトはF-1のフライバイ ワイア、電子制御運転の第一歩でもあった)。
手前のひじ掛けに腕を置いて操作するのだと思いますが、この時代でもカーブでは最大4G近く、体重の4倍の力が掛かる中でハンドル回しながらギア操作するわけですから、F-1ドライバー恐るべしです。当然、足でクラッチの操作もやりながら、なのです。現代のF-1ドライバーは当時の車ではまともに走る事も出来ない、と言われてるのがこの辺りの違いですね。
ついでに左側にシフトがあるという事は、イギリス車なのに左ハンドルだ、と思ったり(笑)。
車体後部。キレイにカウルが絞り込まれ、空力的に気をつかってるのが判ります。
赤いランプは雨天など視界が悪いときに追突防止用に点灯するリアライト。この奥にギアボックスがありますが、1988年だとまだ縦置きのものだったはず。ちなみにマーレイの低い車高に合わせるため、ギアボックスも平べったく薄いものが採用されたそうな。
後部サスペンション周りとリアウィング。
ウィングの板は意外に厚めです。後輪サスペンションの中央部に見える太い棒が車輪を回すドライブシャフト。
といった辺りが1988年のマクラーレン・ホンダです。
このコンビは翌1989年に自然吸気エンジンになってからもドライバーズ、コンストラクターズチャンピオンの両タイトルを1991年まで、4年連続で獲り続けました(ドライバーズは89年がプロスト、90、91年がセナ)。その後、ルノーエンジンを得たウィリアムズが1991年終盤から急激に追い上げて来て、1992年、ついにマクラーレン・ホンダは王座から転落してしまいます。
そして4代目ホンダ社長になっていたF-1番長 川本さんがすでに1991年7月に1992年まででホンダのF-1撤退を発表しており、これで10年間に渡った第二期活動は終わりとなったのです。ちょうど10年、というのも一つの理由だったかもしれません。最後は勝って終わりたかったはずですが、そこまで勝負の世界は甘くなかったようです。
ちなみに、この撤退は最初にすっぱ抜いた朝日新聞の記者がロクに取材もしてないまま経済的な理由での撤退と述べ、以後、この理由が独り歩きしてしまってます。が、誤りでしょう。実際、後の記者会見で、川本さんは「経済的な理由なら借金してでも続けた」と発言しています。
この辺りは「F-1 地上の夢」の文庫版の後書きで海老沢さんが詳しく述べているように、一言で説明できるような状況では無かったようです。
90年に川本さんがホンダの社長となりF-1にかまけてる事が出来なくなった事、かといって川本さんに代わってF-1を引っ張て行く人材が無かった事(桜井さんは1988年に退社済)、91年の8月に本田宗一郎総司令官が亡くなった事、このような事実が少しずつ重なって川本さんが自分で始めたF-1に社長となった自分でケリをつける責任を感じた事、などがいくつも絡まってのホンダの撤退でした。私は美しい撤退だったと思っています。
本来なら、この記事でも撤退時まで追いかけるべきなんですが、ホンダコレクションホールにはMP4/4までしか展示が無かったので、ここまでとしましょう。
ちなみに1988年のF-1大ブーム以降は多くの出版物があり、資料にも事欠かないはずなんですが、一つとして海老沢さんの「F-1 地上の夢」に及ぶものが無いのが残念です。海老沢さんは、日本人の120%がF-1なんて知らない時代にホンダのF-1活動を追いかけ、TV中継が始まり、中嶋選手がデビューして日本のF-1元年となった1987年までで取材を終えてしまったのは残念な事でした(「F-1 地上の夢」は1986年までだが中嶋悟選手を題材とした「F-1 走る魂」が1987年を扱っている)。
それ以外の資料については本文中でほぼ触れてるので、ここでは再度述べません。そして次回、ようやくこの長かった連載は最終回を迎えるのです。
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