今回はホンダF-1の第二期で、というか2020年現在に至るまでの中でも最も成功した年、1988年を見て行きます。
この年、マクラーレンと組んだホンダは全16戦中15勝、勝率93.8%という驚異的な記録を打ち立てました。
前年はウィリアムズとロータスの二チームにエンジン供給して16戦中11勝だったのに、この年はマクラーレンだけで16戦中15勝という圧勝を収めたのです。その代わり、この年もエンジンを供給され、前年チャンプのピケと日本の中嶋を抱えていたロータスは1勝もできず終わってますが…。
そしてこのホンダの圧勝を受けて、日本では大F-1ブームが起きます。1987年に初めてテレビ中継が始まり、一定の人気を得ていたのが、この年からは社会現象と言えるほどの人気となり、無敵ホンダの象徴となったブラジル人ドライバー、アイルトン・セナの人気も絶頂となりました。このため、それまでホンダが趣味でやっていただけで誰も知らないような存在だったF-1が一気に日本に根付く事になります。
このころの熱狂ぶりは、経験した人間でないと想像もできないでしょう。ほぼ二週間ごとのレースの後に速報雑誌が発売となり、しかも複数あってそのほとんどがコンビニでも買えたとか、聞いたことも無いようなアイドルグループがF-1の歌でCDまで出してたような時代なのです。
そしてこの年間15勝の記録は後に2002年、シューマッハ黄金期のフェラーリが再度達成するまで14年間に渡って破られませんでした。2004年にも再度、年間15勝をフェラーリは記録しますが、2002年は年間17戦、2004年は18戦だったので勝率では90%を超えておらず、ホンダの勝率記録は破れなかったのです。
その後、開催レース数が年間20戦を超えるようになると、メルセデスが2014年と15年に16勝、2016年には19勝を記録してます。ただし19勝した2016年でも全21戦開催だったので勝率90.48%であり、マクラーレン・ホンダの年間勝率記録は未だに破られていません。一年を通じて未勝利が1レースのみ、というのも未だに1988年だけですから、まあすごい記録なのです。ちなみに年間勝率が90%を超えたのは、1988年のマクラーレンホンダと2016年のメルセデスの二度だけとなっています。
これはホンダのターボエンジンが円熟期に入った事、マクラーレンのシャシーが優れていた事、監督のロン・デニスの手腕が優れていた事、そしてセナ、プロストという当時から現在に至るまででも最強のドライバーコンビが居た結果でした。ホンダのエンジンだけでこれだけの成績は無理だったでしょう。
特にドライバーは豪華で最終的にセナは3度の、プロストは4度のワールドチャンプを獲ってますから、これだけ強力なチームは後にも先にも無いでしょう。もっとも、どっちも自分がナンバー1だと思っていたので諍いが絶えず、後に1989年まででプロストはマクラーレンを去るのですが…
F-1史上最強のクルマと言っていい1988年のマクラーレンMP4/4。
この年から排気タービン、ターボの過給圧は
2.5bar≒2.5気圧≒253kPaにまで落とされてしまいます。この結果、市田さんによる新世代ターボエンジン史上最低の680馬力前後、無制限過給時代の半分近くまでその出力は落ちています。さらに燃費も厳しくなり、1987年の搭載量195リットルから150リットルにまで減らされました。それでも16戦15勝という圧勝に終わったわけです。
そして前年末でホンダの黄金期の基礎を造った桜井「総監督」は自ら引退、この年から後藤治「プロジェクトリーダー」がホンダの総指揮官となってました(ちなみに桜井さんは1988年にホンダも退社、自分の会社を立ち上げてる)。ただしマクラーレンとの提携とこの年のエンジン開発、さらに1989年からの自然吸気エンジン開発までメドを立ててから桜井さんは引退してますので、1988年の圧勝は桜井さんと後藤さん半々の功績、というのが実際のところではないかと思います。
前年まで4年間に渡り提携していたウィリアムズと手を切ったのは桜井さんの判断によるものでした。
桜井さんがウィリアムズのイマイチやる気が感じられない体制に不満を抱えていたのは既に何度か述べた通りで、その原因は極端な階級意識にある、と彼は考えていたようです。例えばウィリアムズチームでは全ての権限は監督のウィリアムズと設計責任者で現場監督のような立場だったヘッドに集中していました。
このためほかの人間が改善策や改良案を出しても無視され、またそれを求められる事も無かったとされます。結果、チーム全体としてどうしても勝ちたいという意識に欠け、全体として硬直した組織になってました。そこに持ってきて1986年のサスペンション問題を見れば判るようにウィリアムズもヘッドも問題に機敏に対応する人物ではなく、組織として硬直化していました(これはOODAループ的に見ても方向付けの一極集中で組織の回転が簡単に止まってしまう悪い形態の一つ)。
この点についての不満からホンダは1987年にはロータスへのエンジン供給を決定したのです。
が、結果から言えば、ロータスも似たような硬直した組織でした。これを見てどうもイギリスの社会構造、支配者階級と労働者階級が明確に分かれてる点に問題があるのではないか、と桜井さんは考え始めます。このため日本人には理解できない世界だが、文化的な違いではどうしようもあるまいと半ばあきらめていた所に登場したのがロン・デニス(Ron
Dennis)率いるマクラーレンだったのです。
このチームは独裁による封建時代的な組織になっておらず、極めて活気にあふれ、そしてデニスは桜井さんや川本さんと同じレースに勝ちたくて勝ちたくて仕方ない人でした。ホンダにとって理想の相手だったと言っていいでしょう。
マクラーレンは早くからホンダに接触していたチームの一つでしたが、結局1984年からポルシェエンジンを選択、1984、85と二年連続でコンストラクターズチャンピオンを獲得していました。ドライバーズチャンプでは1986年のオーストラリアGPの悲劇でマンセルがチャンプを獲り損ねたため、3年連続でこれを獲得しています(84
ラウダ、85 プロスト、86 プロスト)。
マクラーレンは1970年代後半は完全に二流チームになっていたのですが、これを復活させたのが1981年からチームの指揮を採ったロン・デニスでした。ちなみにデニスも後にウィリアムズと同じサーの称号を受けています。
ついでながらマクラーレンの車に付くMP4のP4は彼が設立したレーシングチーム、プロジェクト4の意味です。Mはスポンサーのタバコ屋さん、マルボロのMで、デニスをマクラーレンのボスにしたのはスポンサーのマルボロだったからでしょう。当時、低迷中のマクラーレンに愛想が尽きたスポンサーのマルボロが、F-2で結果を出していたデニスのチーム、プロジェクト4と1980年末に合併させ、1981年から彼をF-1の世界に呼び込んだのでした。
1980年代と90年代のF-1はマクラーレンとウィリアムズの時代だったと言っていいのですが、ホンダが新生代ターボを完成させた1986年から、撤退前年の1991年までの6年間は両者の内、ホンダエンジンを得た方が交互にコンストラクターズチャンピオンを獲っていた事になります。例外はホンダの最後の年、1992年にルノーエンジンで勝ったウィリアムズのみです。
ちなみに1980年から1999年までの20年間でマクラーレンのコンストラクターズチャンピオンは7回、ウィリアムズは9回、他にはフェラーリが3回、そしてベネトンが1回獲ったのみです。今では考えられない二強時代と言えますが、それが20年間続いていたわけです。イギリスのイギリスによるイギリスのF-1と言っていい時代でした。
ちなみに21世紀はフェラーリとメルセデス、そしてルノーと、ドイツとラテン系の時代なのですが、フェラーリを除く2チームは本拠地をイギリスに置いてますから、今でもF-1の本場はイギリス、という事になります。そろそろそんな時代は終わって欲しいと個人的には思うんですけどね。
さて、1984年からホルシェエンジンで一時代を築いたマクラーレンですが、ホンダの新世代エンジンが登場した1986年、そして1987年はコンストラクターズランキングで2位に甘んじる事になります。ちなみにこの時代のポルシェエンジンはTAGポルシェと呼ばれますが、TAGは資金提供をしたサウジアラビア人の投資会社の名です。ここがマクラーレンと組んでTAG
ターボエンジンという会社を設立、そこがポルシェに発注する、という形式で新型ターボエンジンを確保したのです。
ちなみに時計メイカーのホイヤーを買収してTAG ホイヤーとなるのは1985年からなので、この段階では時計屋とは無関係です。
高級車専業で、企業規模の小さいポルシェではルノーやホンダのように自腹でエンジン開発ができなかっための資金体制でした。それでも2年連続でコンストラクターズチャンピオン、3年連続でドライバーズチャンピオンを獲ってしまったんだから、ポルシェも大したものでしょう。
ただし1986年になるともはやホンダエンジンに勝てない事が明らかになりつつありました。ついでにTAGは意外にケチで、他のチームのように予選用の高いブーストに耐えるエンジンを製作する予算を拒否していたため、その凋落はより明確になります。
そしてデニスはこの年の6月、デトロイトGPが終わった直後ににエースドライバー、プロストを連れて来日、ホンダに対してエンジン供給を約束するまで帰国しないと宣言し、1週間以上日本に滞在して交渉を続けたのです。ただし、この段階で桜井さんはすでにロータスへの供給を決めていたので、この話はここで流れてしまいました。
最終的にTAGが資金を停止してポルシェエンジンがF-1から撤退する事になった経緯はイマイチはっきりしないのですが、このデニスの必死さからして、すでに1988年からのポルシェエンジン供給停止が決まっていた可能性もあります。
ただし設計責任者、チーフデザイナーだったスティーブ・ニコルズによると1988年用のMP4/4は当初、TAGポルシェを搭載する前提で設計を開始していた、と証言してるようなので、断言はできませんが…。
ちなみに1987年まででポルシェはF-1から撤退してしまうのですが、自然吸気となった後の1991年に再び参戦して来ます。ただしこの時のエンジンはまともに走る事もできない、という悲惨なV12でした。アロウズ(フットワーク)のマシンに搭載しシーズン途中まで6戦走って一度も予選を通過できず、すなわち一度もレース本選を走れないまま撤退という屈辱的な結果に終わります。なんとなくこの辺り、栄光の第二期から屈辱の第三期に至るホンダに似てなくも無いですね。
話をマクラーレン・ホンダに戻します。
この時デニスと話し合いをもった桜井さんは強い印象を受けたようで、後に1987年に入ってからもその交渉を続けました。その過程でとにかく自分に有利な条件を詰め込もうとするウィリアムズのようなチームと異なり、デニスは常にホンダはパートナーであり、対等な関係だとして多くの条件を受け入れる事に同意します。
この結果、桜井さんは完全にマクラーレンに惚れこんで提携を決意、1987年9月のイタリアGPで1988年からはマクラーレンへのエンジン供与を行う事を発表したのです。この時の契約は単なるエンジン供給ではなく、車体開発を含めて多くの面で対等なパートナーとなる事、逆にマクラーレンからも技術者がホンダにやって来ることなどが盛り込まれていたとされます。この結果、予算的には前年を超えてしまうのですが、1987年から日本でF-1の認知度が上がってきたこともあり、この予算は承認されたようです。
ちなみにウィリアムズとは当初、1984年から3年契約だったので1986年で一度終了、1987年の段階で契約を延長してるはずなんですが、この辺りの経緯を見ると1年契約だったのかもしれません。
ただしホンダからの契約打ち切りの通達を受けたウィリアムズは当然、猛反発し、7日間に渡って両者の交渉が続くのですが、最終的にどうしようも無い、という事で手を引きました。ウィリアムズは翌1988年は自然吸気のジャッドエンジンで戦うのですが、前に見たようにジャッドのF-1エンジンの開発にホンダは関わってますので、おそらくこれ、無償供与、少なくとも格安での供与という条件付きだったんじゃないか、と推測してます。
ただしジャッドエンジンの出来は散々で、マンセルは16戦中12戦リタイアという悪夢のようなシーズンとなってます。当然、未勝利に終わるのですが、それでも2位二回を獲得してるのはさすがマンセルという所かも知れません。
こうして生まれたマクラーレン・ホンダがF-1史上に残る16戦15勝、そしてセナの初チャンプ獲得を成し遂げたのが1988年だったのです。ちなみにセナのマクラーレン入りにもホンダは深く関わっていました。実際、1987年の8月に入った段階でセナはすでにロータスともう契約しない宣言をしており、おそらくホンダがマクラーレンと交渉しているのを知っていたはずです。
ついにでセナを失ったロータス・ホンダにはウィリアムズを出たピケが加わるのですが、彼も8月6日のハンガリーGPでウィリアムズと契約延長しない事を宣言、ロータスに移る事を発表してますから、おそらくウィリアムズ本人より先にホンダが手を引く事を知っていた可能性があります。よって、この辺りにもホンダが関わってる可能性が高いです。
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