さて、今回はホンダが初めてのコンストラクターズチャンピオン エンジンとなった1986年を見て行きます。
それは同時に最終戦の“オーストラリアの悲劇”によってドライバーズチャンピオンをマクラーレンのプロストに奪われる年でもあったのですが…。

ちなみにこの年はエンジン規格はターボ車のみとされ、このためF-1に参加した全車がターボエンジンという特殊な年でした。これはターボエンジンの急激な馬力増大に対抗するため、自然吸気エンジンを急遽500t拡大して3500tにする事が決定したものの、1986年には誰も開発が間に合わないので、1年間を移行期間としたため。
この結果、全車ターボで右見ても左見ても1000馬力、燃費も耐久性も無視できる一発勝負の予選だったら1500馬力、という前代未聞の世界が展開する事になるのです。こんなのは、未だにこの年だけですね。そんな年にホンダは初めてのコンストラクターズチャンピオンを獲る事になります。

 

1986年、ホンダエンジンに初のコンストラクターズチャンピオンをタイトルをもたらしたウィリアムズ FW11。
(以前にも書いたように厳密にはエンジンだけのタイトルというのは存在しないのだが)

赤の5番はマンセルの車ですが、どのGP仕様なのかは不明。ただしサイドポンツーンの上に煙突型の空気取り入れ口が飛び出した終盤戦型ですから、おそらく悲劇のオーストラリアGP仕様じゃないかと思います。

1986年は桜井「総監督」も1985年終盤三連勝の流れを受け、最初から本気でチャンプを獲りに行く気でした。このため例によってホンダ本社で年末に行われた役員会議において、1986年はチャンプを獲りに行くと宣言、1985年の倍額の予算を要求してこれを勝ち取ってます。

「総監督」就任当初、1984年の倍の予算が必要と主張していたのが実際は3倍になってますから、この辺りの認可は本社社長の久米さん、同役員の川本さんの力があったと思われます。ついでに1986年にF-1番長 川本さんは技術研究所の社長に就任しており、その全面的な支援もこの年から始まります。ただし川本さんは第一期F-1の過ちも知っていたので、研究所全体がF-1に熱中しないよう、すなわち企業としてのホンダに悪影響を及ぼさないよう、暴走を制御していたフシもあるんですが。
ちなみに与えられた予算は過不足なく使い切ったそうで、当初の予定通り、ほぼ全てうまく行った年、とも言えます。唯一の例外がドライバーズチャンピオンを逃した事だったわけですが…。

ついでに桜井さん自身はその予算を明記してないのですが、川本さん時代の1984年の総予算が30億円と言われてますので、そこから計算するとホンダは1985年に45億、1986年は90億以上のお金をF-1につぎ込んだ事になります。当時のマクラーレン、ウィリアムズクラスのチームでも年間運営費は50億以下と見積もられていましたから、実際に参戦してるチームの倍近いお金をつぎ込んでいたわけです。この間に人員も川本さん時代の40人から倍以上の100人以上まで増えてますから、もはや新たな会社組織のようなものだったと言えます。

ついでながら、この辺りの資金問題はある程度の幸運もありました。1986年は急激な円安が進んで各自動車メーカーの売り上げが大打撃を受けるのですが、会議はその前に行われていたので、無事、要求が通ったという面があるのです。実際、翌1987年からは後で見るようにウィリアムズとロータスへの二チームへのエンジン供給となりながら、予算額は1986年のまま凍結されてます。

ただし手元の資料で見る限り、不景気の1987年でもホンダは宣伝広告費に約309億円を投じており、それに比べればまだ安く、しかも1987年以降に日本で起きたF-1大ブームを考えれば、かなりいい投資ではありました。おそらく予算の数倍の宣伝効果があったでしょう。しかも世界が相手ですしね、F-1の場合(ただしアメリカでは不人気だが)。

ちなみにこの時代のホンダは年間百台を軽く超えるF-1用エンジンを造っていたはずですが(当時は1レースに3台のエンジンを使う×2台分=最低6台、なので16レース×6台=96台が最低数で実際はそこに予備のスペアカーのエンジンが加わる)、それでも年間予算から一台当たりの製造コストを計算すると9000万円を軽く超えてます。当然、ほぼ製造原価です。参考までに1970年代の事実上の標準エンジン、フォード コスワースはどんなに高くても販売価格で1500万円だった、という話がありますから、この時期からF-1にかかる予算が桁違いになりつつあったのが判るでしょう。

この莫大なホンダの資本力に驚いたのが他のエンジンメーカーとコンストラクター(参戦チーム)で、ここから後にヨーロッパの関係者の間でホンダとターボ外しが密かに進むのですが、この点はまた次回に。それでも勝っちゃうのが桜井さん時代のホンダなんですが。

とりあえず1986年のドライバーには前回見たように過去2度もドライバーチャンピオンを獲ってるベテランのブラジル人、ピケが加わり、もう一人は前年に続いてマンセルでした。極めて強力なコンビなんですが、強力すぎて両者で勝ち星を奪い合ってしまい、最終的にマクラーレンのチーム内で一人で勝ち続けたプロストにドラバーズチャンピオンを獲られてしまうのです(マクラーレンのもう一人のドライバー、ウィリアムズから移籍したロズベルグは一勝もできずにこの年で引退に追い込まれる)。

この年のウィリアムズの場合、契約時に明確にエースドライバー、セカンドドライバーの区別をしていなかったという話もあり、これが問題を複雑にし、ピケとマンセルはお互いに憎悪しあうほどの争いに発展してしまいます。
最終的にイギリス人のマンセルをウィリアムズのチームが、対してホンダが引っ張て来たような形になっていたピケをホンダが後押しする形でこの争いは翌年まで続く事になります。一時はホンダから強い支持を受けていたマンセルですが、この時期に高額の移籍金につられてフェラーリに移ろうとしたりした事から(最終的に翌87年は残留したが後89年に移籍)徐々にホンダ側はピケを支持するようになります。

でもって全くの余談ですが、2019年にトロロッソ・ホンダ(2020年からアルファケンタウリ・ホンダ)のドライバーを務めたロシア人、ダニール・クビアトの奥さんはピケの長女だったりします。

さらに開幕前の2月にフランスで行われた走行テスト終了後、ボスのフランク・ウィリアムズが自動車事故で大けがを負い、この年は現場で指揮できなくなってしまいました(第14戦ポルトガルに車椅子で現場に出て来たが指揮はとれず。そしてそれ以降はヨーロッパ以外のレースとなってしまって移動が困難で参加できず)。このため1986年は主任設計者のパトリック・ヘッドが陣頭指揮をとってます。

ちなみにフランク・ウィリアムズは後に現場復帰を果たすのですが、以後は車椅子の利用を余儀なくされる事になりました。日本でF-1中継が始まったのは翌1987年からなのでフランクと言えば車椅子、という印象がありますが、実はその1987年が彼が車椅子で指揮を執った最初の年でした。

さて、ここで1986年のウィリアムズ・ホンダの戦績を再確認しておきましょう。

GP  ネルソン・ピケ   ナイジェル・マンセル
1.ブラジル 3/23  優勝  リタイア
2.スペイン 4/18  リタイア  2位
3.サンマリノ 4/27  2位  リタイア
4.モナコ  5/11  7位  4位
5.ベルギー 5/25  リタイア  優勝
6.カナダ 6/15  3位  優勝
7.デトロイト 6/22  リタイア  5位
8.フランス 7/6  3位  優勝
9.イギリス 7/13  2位  優勝
10.ドイツ 7/27  優勝  3位
11.ハンガリー 8/10  優勝  3位
12.オーストリア 8/17  リタイア  リタイア
13.イタリア  9/7  優勝  2位
14.ポルトガル 9/21  3位  優勝
15.メキシコ 10/12  4位  5位
16.オーストラリア 10/26  2位  リタイア

初戦のブラジルでいきなりピケが優勝、その後、第4戦モナコまで二人で計二回、2位に入ってますがリタイアも3回と信頼性がイマイチだったのが見て取れます。とにかく毎年序盤戦に弱い、というのはウィリアムズ・ホンダ時代の特徴でもあります。
この内、スペインとサンマリノのリタイアはホンダの責任で、エンジンのバルブスプリングの品質に問題があり破損したものでした。その後、サンマリノGP後に全てのスプリングを破棄、あらたに造り直して問題を解決しています。

第4戦のモナコGPはウィリアムズ時代のホンダが苦手としたコースの一つで、4年間に一度も勝てませんでしたから、この結果はしかたない所。低速コースでホンダエンジンの大馬力が生かせなかったのもありますが、同時に後輪の摩耗という欠点を最後まで解決できなかったウィリアムズの車体の問題でもありました。ちなみにピケ、マンセルほどのドライバーでも生涯に一度もモナコでは勝ってません。

ただし1988年からマクラーレンにホンダエンジンが移ると、それまでの不調がウソのように、以後、撤退の1992年までモナコでホンダエンジンは5連勝してるのです(1988年がプロスト、以後はセナが4連勝)。ちなみにアイルトン・セナの前人未到のモナコ5連勝の内、4勝をホンダエンジンが占めています。

ついでながら1986年のモナコGPでスイス在住の日本人カメラマン 間瀬明さんの仲介により桜井「総監督」は当時ロータスに在籍していたアイルトン・セナと話し合う機会を持っており、ここから後のセナとホンダの蜜月が始まる事になりました。

そしてエンジンのバルブスプリングの問題が解決し、苦手のモナコを終えた後は快進撃が始まります。第5戦ベルギー以降は12戦8勝という圧倒的な内容なのです。特にイギリスGP以降は4連勝で、これでほぼコンストラクターズチャンピオンを決めてしまいました。ちなみにハンガリーGPはこの年に初めて開催されたのですが、これは共産圏における初めてのF-1開催でもありました。もの珍しさも手伝って、15万人を超える観客が集まったとされます。

その後、シーズン終盤に失速しているものの、会心のコンストラクターズチャンピオン初獲得だったと言っていいでしょう。ただし何度も書いてるように、最後の最後、レースを怖くて見れないと言っていた本田宗一郎総司令官が珍しく観戦に来たオーストラリアGPで(TV局に依頼されたという話あり。ただし娘さんがオーストラリア人と結婚して現地に居たのも理由の一つ)、プロストに悲劇的な逆転負けを喫してドライバーズチャンピオンを逃すのですが…

それでもホンダエンジンがコンストラクターズチャンピオンのエンジンになったのは事実で、これは本田宗一郎総司令官の夢がかなったことを意味します。1964年の東京オリンピックの年に始まった挑戦から実に23年目の事でした。

オーストラリアGPの後、本来なら祝勝会になるはずだった会が現地の和食レストランで行われたのですが、そこに本田宗一郎司令官が訪れます。この時、ホンダのF-1チームのメンバーを前に本田宗一郎総司令官は手を付いて頭を下げ「皆さんのおかげで世界一になるという私の夢がかなえられました」とお礼を述べたと言われており、このチャンプ獲得がホントに嬉しかったんだと思います。

かつての1960年代の第一期F-1時代の総司令官なら、スパナ持って「つまらねえレースやりやがって」とパドックに殴り込みかねない状況ですから、引退後は人間が丸くなったのだなあ、というのと同時に、ホントにこの人は心の底から世界一になりたかったんだな、と思います。

そんな人物が造ったホンダだから、こうして勝てたのだろうし、その夢を実現させるのに川本さん、桜井さんという非凡な統率力能力を持った人物が二人も居た幸運に驚くべきでしょう。
その後、本田宗一郎総司令官は1991年8月、無敵ホンダ時代の中で永眠。これほど幸せな晩年を迎えられたのは見事だったと思います。そしてその翌1992年をもってホンダがF-1から撤退する事をF-1番長にして四代目 ホンダ社長になっていた川本さんが決定するわけです。


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