今回からはホンダのF-1参戦3年目以降、3000tエンジン時代を見て行きます。最初にホンダの第一期F-1時系列を確認しておきましょう。


1500tエンジンで2年、3000tエンジンで3年、計5年間を戦い、それぞれのエンジンの2年目に一勝ずつして終わったわけです。そしてそれぞれのエンジンの初年度は、どちらも開発が間に合わず、途中参戦になっています。
さらに言えば、エンジンのみの参戦だったF-2の圧勝ぶりがやはり目につきます。これは久米&川本という、後にどちらも社長にまでなってしまったホンダ歴代エンジン最強開発チームによるものですが、もしF-1でもエンジン開発に集中し、しかもこの二人が設計していれば…と考えさせられる部分でもあります(特に久米さんの才能が惜しまれる)。
この最強コンビは最後の最後、1968年に3000cc F-1に挑むのですが、この年、ホンダは本田宗一郎総司令官の狂気に飲み込まれ、無残な一年を過ごして終わる事になるのです。ある意味、その無念さが川本さんをF-1番長にし、後の無敵第二期活動の切っ掛けになったとも言えるのですが。

ちなみに3000t となった最初の年、1966年のF-1監督には前年の途中で何度も交代させられた関口久一さんが復帰して務めたのですが、この年限りでまたも交代になります(成績不振が原因だと思われるがどうも中村さんが強引に翌1967年の監督を自分で引き受けた可能性が高い。さらに中村さんの復帰には翌年からエースドライバーとなった元チャンプのサーティスの意向もあった)。
この関口さんはマン島以来のホンダレーシングチームの重鎮でしたが、どちらかと言うと二輪畑の人で、後にRSC(HRCの前身)の社長などもなさったようです。ついでに、この人も元は中島飛行機出身なので、中村さんに近い人物だったと思われます(ただし1957年入社なので社内では先輩)。ちなみに関口さんの伝記が群馬の出版社から出てるのまでは突き止めたんですが、自費出版本らしく入手できませんでした…

結局、1967年からまた中村さんが監督に復帰、以後最後の最後、1968年の撤退まで監督を務め、最終的にホンダから半独立したチームを創り上げてしまいます。それがまた本田宗一郎総司令官との対立を生むのですが…。後に久米さんが「あの人は人生賭けてレースをやっちゃった人だから」と言われる中村さんもまた、強烈な個性を放つホンダ創成期のお一人なんですよね。



まずはホンダによる3000t F-1の一号機、RA273を見て行きましょう。
1966年のイタリアGPから翌1967年のイタリアGPまで、ちょうど一年間に渡り使用されたのがこのRA273でした。3000cc F-1 初年度となる1967年の開幕には開発が全く間に合わず、それどころかシーズン終盤、9月4日開催の第七戦イタリアGPからようやく参戦を果たしたのがこの車。結局、この年は次の第八戦アメリカ、最終戦メキシコと全部で三回出走しただけで終わってしまいます。このため翌年、1967年も引き続きRA273でホンダは戦うのですが、その後9月のイタリアGPから新型(というか急遽イギリスで組み上げた)マシンRA300が登場、結局、一年ほどの運用でRA273は引退となりました。

展示の車はサーティスの名前が入ってるところから判るように投入二年目、1967年の第七戦ドイツGPで走った車です。ちなみに初年度にあたる1966年のゼッケン18番、ギンザ―の車もこの博物館は持ってるはずですが、展示は無し。

残念ながらRA273は出来のいいマシンとは言いかねる車で、デビューした1966年は最終戦のメキシコでエースのギンザ―が4位に入賞したのが精一杯(最初のイタリアは7位、次のアメリカではリタイア)、セカンドドライバーのバックナムは第八戦のアメリカからようやく出走していきなりリタイア、次のメキシコでようやく完走できたものの8位に終わります(当時は6位までが入賞)。

そしてこの年一杯でホンダは二人のドライバーとの契約を打ち切り、同年のシーズン中、中村さんに接触して自らを売り込んで来た1964年のチャンピオン ドライバーで元フェラーリのエース、ジョン・サーティスと1967年以降の契約を結ぶのです。二輪GPとF-1の両方でチャンピオンとなった事がある唯一の人類であり、すでに伝説になりつつあった大物ドライバーですね。以後、ホンダは最後までサーティスによる一台体制で戦う事になります(ただし余ってた予備の車を有償で他のチームに貸し出したことはあった)。

ちなみにサーティスがホンダの監督だと勘違いして中村さんに接触して来たのが1966年の8月だとされますから(この年の監督は関口さん)、彼はまだRA273 が実際に走る前からその売込みを開始した事になります。おそらく元二輪ライダーである彼は二輪GPでのホンダの無敵ぶりからの期待でホンダに声を掛けたのだと思われます。その後、イタリアでこのRA273を見てサーティスがどう思ったかは、ちょっと興味があるところですね。
ちなみにサーティスが1958年から1960年にかけて3年連続で500cc & 350cc の両二輪世界チャンプを獲ったのはMVアウグスタからの出走でホンダで走った事は一度もありません(1956年の500t単独チャンプの時も同じ)。

ついでに3000tのホンダが1966年前半戦中に完成しないと知ったホンダのエース、ギンザーは当初、名門クーパーから出走します。ただし初戦リタイア、第2戦8位とパッとせず、そこにもって来て第二戦終了後にフェラーリとケンカ別れしたジョン・サーティスがクーパーに移籍して来たため、彼は第3戦以降、チームから弾き出されてしまうのです。その後、第9戦イタリアからホンダに戻ったのですが、この辺りどういった契約になってたんでしょうね…。

もっともこの年のクーパーは不調で、サーティスをもってしてもしばらくリタイアが続くのですが最終的に優勝一回、二位一回を獲得、さすがは元世界チャンプという走りを見せてます(最終戦のメキシコで勝ったのだが、すでにホンダに移籍決定後だったので高地用燃料噴射装置のセッティングを中村さんがアドバイスしたらしい。ちなみにこのレースではホンダのギンザ―がファステストラップを獲得しており、中村さんセッティングの凄さが判る)。そしてその間に彼はホンダに接触し、翌年のシートを手に入れた事になります。よってギンザ―は同じ年の内に二度もサーティスにシートを奪われたわけです。…世知辛い業界ですな。

ついでにそのサーティスがチャンプを獲った古巣フェラーリを出る最終的な原因を造ったとも言えるのがフォードの無敵ル・マン対策マシン、伝説のGT40でした。当時、フェラーリはル・マン24時間レースにも参戦していたのですがこの年から無敵の快進撃を始める事になるGT40に勝ち目は薄いと見られてました。そこでフェラーリのF-1ドライバーだったサーティスが呼び出されるのですが、ここで彼はチーム監督と衝突、ル・マンでは走らずサーキットから帰ってしまうのです。その直後にF-1のフェラーリチームからも離脱、クーパーに移籍する事になり、その後にホンダに自らを売り込んだ事になります。

ホンダにとっては幸運だったことに、レーサーとしてだけではなくマシンの開発担当ドライバーとしてもサーティスは優秀でした。RA272&273の車体設計者であり後にRA300にも関わる佐野彰一さんによると、ギンザ―は何言ってるのか判らない、ホントに機械が悪いのか、本人が運転が下手なのを誤魔化してるだけなのか判断がつかない、対してサーティスは必要最低限の要求しかせず、すっきりした、と言ってますから、ホントになんでホンダはギンザ―を雇ったんでしょうね…。

そのサーティスが冬の間に開発に協力、翌1967年までにRA273はかなりの改良が行われました、そして翌1967年の第一戦、1月2日というスンゴイ日程で当時は開催されていた南アフリカGPでいきなり3位を獲得、サーティスが表彰台に上がる事になり、ホンダのチームを喜ばせます。
が、その後はパッとせず、第2戦モナコ、第3戦オランダ、第4戦ベルギーと3連続リタイア、第5戦フランスはそれまでのレースで壊れたエンジンの代わりが届かず欠場という大混乱になりました。第6戦イギリスでようやく完走するものの6位入賞が精いっぱい、次の第7戦ドイツで4位に入るものの、この辺りが限界でした。

かつての世界チャンプ、サーティスの成績としては散々なものであり、この結果、急遽、ホンダ社内ではなくイギリスで新型マシンの車体を造ってしまう事になります。これがRA300で、イタリアGPにおけるデビュー戦優勝と言う離れ業をやってのけるのですが、この辺りについてはまた後ほど。


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