RA273を正面から見る。
個人的に前後の翼が無く、ラジエーターが車体正面にある“葉巻型”F-1が一番カッコよかったのは1500t時代だと思っておりまして、3000tになってからは醜悪というか不細工というマシンが次々と登場した印象がありにけり。その中でのRA273は全体がスッキリしていてかなりかっこいい部類ではないかと思っています。まあ、次のRA300
からホンダの3000tマシンもかなり見苦しくなって行ってしまうんですけどね。
前輪の間にある胴体上面の穴はラジエター冷却後の空気抜き穴。1500t時代はラジエータの熱を持った空気の排出が十分ではなく、運転席内に熱がこもってしまったので、その対策として大きな穴が設けられたもの。その上から飛び出してる細い筒はブレーキ冷却用との事なんでブレーキ液を冷やすための空気取り入れ口だと思われます。…個人的にはこれが無ければもっとカッコいいのに、と思う所です。
前輪は典型的なダブルウィッシュボーン(緩衝器は内臓式(インボード))、その付け根にカバーをつけて空力を良くしようとしてる辺りは進化の一部ですかね。
とりあえずRA273
もまたホンダらしい重いマシンであり、最低規定重量が500sの所、デビュー戦時の全重量で約720kg(後に減量を行うがそれでも650s近いままだった)、当然、全F-1マシンの中で最も重い一台となっていました。もっともエンジン規格が変更になった初年度、1966年は各チームとも大混乱で、600sを切る軽量マシンの開発に成功したのはブラバムのチームだけでしたが、そんな中でもダントツに重かったのです。
ちなみにブラバムはこの年、その軽量3000t F-1マシン、BT-19で4勝を上げて三度目の世界チャンピオンを獲得するのですが、これはケガの功名的な部分がありました(最後の2戦は新型のBT-20に乗ったが未勝利)。そもそもBT-19は1500tエンジン用に開発されていた小型な車体でしたが実戦投入が間に合わず、さらにその開発の遅れで翌年の3000t用の車体を開発してる時間が無くなってしまいます。
そこでブラバムとデザイナーのトーラナックは、本来なら1500t用だったBT-19に3000tエンジンを積んでしまう事にしたのです。本来ならバランスも何もあったもんじゃないのですが、幸運なことに彼らのレプコ製エンジン(ブラバムと同郷のオーストラリアのエンジン屋)はライバルより10%近く低い300馬力前後の低出力ながら、わずか154sと軽量でした。ちなみにホンダのエンジンは当時最高の400馬力を叩き出したものの、重量220sと極めて重かったのです。参考までにエンジン1sあたりの馬力を見るとレプコが0.51馬力、ホンダが0.55馬力と差は僅かになってしまい、せっかくの高馬力を自らの重量で食いつぶしてるのが判ります。まあ、重さが問題になるのは主にトルクの方なんですが、それも当然、同じような数字になりますから、褒められたものではありません。
ブラバムはこの低出力ながら安定し、かつ軽量なエンジンと車体の利を生かし、他のチームが3000tエンジンと大型シャシーに手間取ってるのを横目にあれよあれよと4勝を上げて、チャンピオンを獲ってしまったのでした。これを見てもエンジン馬力だけで勝てると思ってたホンダの甘さが判るかと。
そして、すでに見たようにブラバムはこの年、ホンダエンジンでF-2のチャンプも獲ってますから、F-1、F-2の二冠王者となったわけです。ついでに自分の造ったチームから出走してF-1チャンプになったのは未だにブラバムただ一人だったりします。
まさに最高の一年だったわけですが、この翌年1967年もコンストラクターで優勝、ブラバム本人も2勝し、さらにドライバーのチャンプはブラバムチームのセカンド ドライバーだったハルムが獲得してます(1966年のホンダエンジンF-2で活躍したあのハルム)。
ただしこの1967年を境にブラバムの凋落が始まり、以後は68、69年が未勝利、70年にようやく一勝だけ挙げて、これを花道に彼は引退することになるのです。ちなみに彼の引退後、チームはトーラナックが引き継ぐものの、低迷を抜け出せず、1972年、あのバーニー・エクレストンがこれを買収し、以後、F-1の世界を金と利権で一新させてしまう事になります。
ちなみに同年、久米さんの跡を継いでF-2レースの現場に飛んでいた川本さんは一時帰国した時にこのRA273を初めて見たのですが、すでに見て来たヨーロッパのF-1、特に四勝していたブラバムのマシンに比べてあまりに重くて大きく「また苦戦しそうだな」と思ったそうな。
ここまで重くなってしまったのは本来ならビニールやらゴムで造られるパイプ類まで頑丈な金属製にしてしまったのが一因と言われ、その理由は本田宗一郎総司令官の完全主義だったようです。壊れるかもしれないから、頑丈に造っておけという事なんですが、すでに見たようにRA273の歴史は死屍累々のリタイアの積み重ねとなってしまい、その頑丈さは全く意味が無く、単に車体を重くしただけで終わるのです。
でもって、そこまでリタイアが重なった一因が、なにしろまともにテストすらしていない、というこれまたホンダの伝統(笑)でした。実はデビュー戦となるイタリアGPの二か月前、7月に車は完成しており、23、24日にはギンザーを日本に呼んでテストまで行ってました。ところがギアオイルの循環ポンプが逆転している、という信じられない設計ミスが判明、まともに走れずテストは中断、さらに設計のやり直しで結局、車が完成したのはイタリアGP直前となってしまい、まともにテストもできないままの実戦投入となっていたのです。そりゃ故障も続発するよな、という所でしょう。この辺り、そもそも開発スケジュールに無理があったわけです。
ちなみに開発チームは1500t F-1の時とは総入れ替えとなっており、車体(シャシー)は日野自動車からF-1がやりたくてホンダに移籍した武田秀夫さん(RA271
&
272ではサスペンションやブレーキなどの足回りの設計を担当してた。RA273では役割が入れ替わり佐野さんが足回りを設計してる)が担当してます。
エンジンは前年、1966年の1500tマシン大改造の時にF-1チームに投入された、後の二輪レース部隊の総司令官、HRC初代社長にしてその後、セガの経営にトドメを刺す事になる入交昭一郎さんでした。
このため、RA272&273とは大きく異なる構造を持ちます。
まず入交さんが設計した3000tエンジンは例によってV型12気筒でしたが通常の縦置き、そしてその後ろに独立してギアボックスが付くという常識的な形状に改められました。写真で一番手前に飛び出たのカバー付きの装置がギアボックス。
車体(シャシー)構造も大きく変わり、エンジンが縦置きになったことで左右幅に余裕ができたので、きちんと車体後部まで構造部が延長されてます。写真でもサスペンション周りがエンジンにではなく、きちんと白い車体部に取り付けられてるのが見て取れるでしょう。ただしこの辺り、逆の他のチームではホンダのエンジンを構造部の一部にする、というアイデアを車体軽量化のために取り入れつつあり、本家のホンダが後退してしまったと言えなく無くもないです。
さらにこのエンジンからドライサンプにしてエンジンの重心を低くしたため、集合排気管は全て上側に回され、その取り回しもややシンプルになりました。展示の1966年の排気管は川本さんによる改良後のもので軽量化されたマグネシウム排気管となってます。元々は白く塗られた排気管だったのですが、なんで熱の放射がもっとも悪い白色にしてたのか、よく判りません。単にカッコいいから?
これはこの第七戦ドイGPから投入されたもの。ただし展示の車のエンジンはオリジナルではなく、ほぼ新規に造り直されてるので、どこまで当時の原型をとどめてるのかは不明。ちなみにギアボックスの左横にある銀色の箱はおそらくミッションオイル用の冷却器(クーラー)。
このドライサンプ化から判るように、同年に久米さんが開発したF-2エンジンに強い影響を受けており、ボア(直径)&ストローク(筒長)もそれに合わせて太く短いタイプ(ビッグボア、ショートストローク)に変更されてます。一説には久米さんのF-2用直列4気筒を3気筒にして、それを左右にV型に並べてV6気筒構造にし、それを前後に連結する形にした、という話もあり。
となると、F-2用エンジンが完成したのはこの年の正月ですから(そのベンチ試験中に先に見た圧縮比が上がらない問題が発生、急きょ新村さんまでを巻き込んで吸排気ポートを潰すシリンダーヘッドの大改良を行った)、そこから設計を開始したとすれば、そりゃ開幕には間に合わないよな、という話です。
ついでにこの1966年から徐々に本社からレースばかりしてないで市販車を造れ、という圧力が研究所に対して強まり始め、入交さんはデビュー戦のイタリアグランプリに立ち会った後、F-1開発チームから外されて軽トラ用エンジン開発チームに配属となってしまいます(おそらく二代目の軽トラTN360)。その跡を継いだのが、F-2が撤退となって手が空いた川本さんでした(久米さんはすでにN360
のエンジン開発担当になっていた)。
といってもすでにエンジンは完成しており、今更作り直す時間はありません。とりあえず細かく手を入れて420馬力、20馬力前後の出力増を行いますが、その程度では効果はイマイチでした。そこで翌1967年に向けてエンジンの軽量化を川本さんは試みます。まずはエンジンの上部構造、シリンダーブロックをアルミからさらに軽いマグネシウムに変更、25sほど軽くするのに成功、さらにギアボックスの設計を変更してケース部をこれもマグネシウムに置き換えて15s軽量化、合計で40kgほど軽くしたのです。これによって220sあったエンジンは180sまで軽量化され、ようやく他のエンジンより“ちょっと重い”というレベルになります(展示の車のエンジンはこの改良後のもの)。
ところがシリンダーブロックに使われたマグネシウムが高温の冷却水と反応して水酸化マグネシウム(Mg(OH)2)となってしまい、その化学反応による水素ガスの泡が大量に発生します。そうなると水が回るべきところに大量の気泡が入り込んでエンジンが冷えませんからこれによってオーバーヒートしてエンジンが破損する事になります。こうして軽量型エンジンが最初に投入された1967年第二戦モナコでは、リタイアに追い込まれてしまったのでした(厳密にはオーバーヒートによりさらに大量発生した水素の膨張で冷却水のホースが破断しエンジンが焼き付きリタイア)。
冷却用の液体とラジエターの金属による化学反応、というとP-51ムスタングがマーリンエンジンに変えた時、アルミ系の冷却器系で起きた化学反応トラブルを連想させます。こういった化学反応によるトラブルは力学と燃焼以外の化学反応など知らぬ存ぜぬの設計屋さんには意外な泣き所になるようです。
ちなみにホンダとしては解決策が見当たらず、塩化物を取り除けば反応速度は落ちることから、蒸留水を使う事でかろうじて乗り切ります。とにかくエンジン始動直前まで水を入れないこと、レースが終わったら即、水を抜くことでなんとかしたようですが、それでも2レースでだいたいシリンダーブロックはダメになった、との事なのでスゴイ世界です。
その後、以前に挫折した燃料噴射装置の高圧化に再び取り組むのですが、これは最後まで完全にはうまくゆかず、結局、本田宗一郎総司令官の目をごまかして当時の世界標準だったルーカス社の燃料噴射装置から一部の部品を流用(主にノズル周り)して完成となりました。
これが投入されたのが第六戦のイギリスですが、ここでもようやく6位入賞に終わります(ノズル周りは後にドイツのクーゲルフィッシャー製に変更)。こうなると、もはやRA273の限界は明らかでした。
さらにこの年の第3戦 オランダで後のF-1の歴史を塗り替えるエンジン、フォード・コスワースエンジンが登場してました。この後、1980年代に入るまで、15年近くF-1を支配し続ける事になるこのエンジンの登場でホンダのエンジンは一気に旧式化、さらにシャシーは重くて話にならぬ、という状態に追い込まれます。これではもはや勝てぬ、と中村さんは判断し新しいシャシーの開発を決断するのですが、それは従来のホンダF-1チームとは全く異なる手法によるものとなるのです。
それがRA300なのですが、この続きはまた次回。
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