その後のホンダの展開。
真ん中のゼッケン12番が4スト楕円ピストンエンジンによる最終進化形、1982年に投入されたNR500の2X型。見れば判るように、0X型にあった多くの奇抜なアイデアは全て取り払われ、保守的といえば保守的な、常識的な構造のマシンになっています。

展示の車体は82年全日本選手権に投入されたもの。ちなみに全日本には前年、1981年からNR500の投入が開始され、その第六戦、鈴鹿の200q耐久で初優勝を遂げています。ただし耐久レースであることから判るように、4サイクルの燃費の良さを活かした給油回数による戦略勝ち、という面があり、速さで勝ったとは言い難いものでした。実際、この一勝のみで終わってます。

結局、ホンダの世界GP復帰にあたって掲げられた目標、3年以内、1981年までにチャンピオン獲得は完全に失敗に終わり、開発チームのNRブロック内でも2サイクルエンジンを開発するべきだ、という意見が出され始めます。そして最終的に入交さんの決断により、1981年途中から開発が始まったのが右端のマシン、2サイクルエンジン搭載によるNS500でした。ちなみにNSが何の略なのか未だに私は知りません。

その2サイクルエンジン設計を担当したのが宮腰信一さんで、当時、ホンダはオフロード用のモトクロスレーサーにはすでに2サイクルエンジンを投入しており、その担当だったのが宮腰さんだったのです。、彼はホンダ第一期世界GPの後半にそのエンジン設計を担当していたベテランでもあります。
NR500の楕円ピストンエンジンは宮腰さんの弟子たちとも言える世代の設計だったので、ついに真打登場、という感じだったのかもしれません。ちなみにエンジンの開発は先行して1980年中からスタートしていた、という話もあるので、ホンダとしてはかなり早い段階で4サイクル楕円ピストンエンジンに見切りをつけていた可能性があります。

ついでに第二期GPレーサーは後輪サスペンションの構造でもモトクロスレーサーから技術導入をしています。それが車体中心部に近い位置にシングルサスペンションを置く構造、いわゆるプロリンクサスなんですが、これを解説すると軽く連載が一回潰れるので、興味のある人は各自調べてください(手抜き)。

とりあえず宮腰さんが考えた2サイクル エンジンは大馬力で最高速度を追求するのではなく、小型軽量で加速がよく、扱いやすくて壊れない2サイクル500tというものでした。
これは350tと500tのタイムを比較した結果、そのラップタイムに大差がない事に気が付き、最大馬力、最高速度よりも小型軽量で扱いやすいマシンの方が結果的に速くなる、と判断したのです。このためエンジンは2サイクルにしたうえで3気筒に減らして単純で軽い構造にされ、11000回転で120馬力前後という常識的な性能に落ち着きます。全重量は119sで、これは初代NR500の130sに比べて11s近く軽くなっていました。
さらに1982年からチーム体制も大幅に変わり、尾熊(おぐま)洋一さんがチーム監督に就任(それまで年間を通しての固定された監督は居なかった)、その体制を立て直します。

こうして必勝態勢を整えて1982年の世界GPに投入されたホンダ初の500t 2サイクルレーサー、NS500はエースライダーだったフレデリック・“フレディ”・スペンサー(Frederick "Freddie" Burdette Spencer)のライディングにより2勝、1977年のGP350クラス世界チャンプだった片山敬済さんもスウェーデンGPで1勝して計3勝をあげてしまいます(これが“日本出身者”の500tクラス初勝利なのだが片山さんの記録については後述)。展示の車体はゼッケン40番ですから、スペンサーのマシンで、第7戦ベルギーGPで優勝した時のもの。これがホンダの復帰後初勝利でした。とりあえず、それまでの3年間における勝てないどころかまともに走れないホンダからすると、劇的な変化があったのがこの1982年だったのです。

余談ですがスペンサーはドクターペッパー愛好家としても知られており、個人的には親近感を覚えております(ついでに敬虔なモルモン教徒でもある)。
ちなみに未だに理由を知らないのですが、1980年代の日本では一部の世界GPライダーはフレディ、ケニーなど、ファーストネームどころか愛称で呼ばれる事が多く、このためスペンサーも、日本では愛称のフレディの名の方が通りがいいです。が、本記事では他のジャンルとの表記統一のため姓(Family name)のスペンサーで統一します。以後のライダーも同じです。ご了承のほどを。

ちなみに楕円ピストンのNR500も引き続き1982年まで世界GPに投入されていて2戦ほど走っていますが、結局、最後まで入賞すらできずに引退となりました(この年は一度も完走してないはずだが、まともな記録が見つからないので詳細不明)。
それでもなぜかホンダは楕円ピストンに妙にこだわりを持っており、この後、750tまで排気量を拡大したNR750を開発しています。これで1987年の各国耐久レースに参戦、オーストラリアで行われていた国内レース、スワンシリーズではチャンピオンを獲っているのですが、果たしてオーストラリアの国内レースのチャンピオンにどれだけの価値があったかは…。

でもって、この750tエンジンをもとに、例の市販楕円ピストンエンジン搭載のNRが1992年に発売となるんですが、なんでここまで楕円ピストンにこだわるのか、正直、理解に苦しむ所です。レースの勝敗でも商売の上でも大失敗作な技術ですよ、これ。ホンダのサイトなどを見ても“あの伝説の楕円ピストン”的な記述が多く、胡散臭いですし。ダメなものはダメと認めるのも技術者の勇気でしょう。
この辺り、2003年に六代目社長となる福井さんが開発責任者だったので、彼が暴走したのかなあ、という気もしますが、よく判りませぬ。

話を2サイクルエンジン搭載のNS500に戻しましょう。
翌1983年、いよいよチャンピオン奪回を目指してエンジンを1万3000回転、130馬力までパワーアップした新型NS500が投入されました。そしてこの年の世界GP500tクラスでは、未だに伝説とて語られるほどの死闘がホンダのフレディ・スペンサーとヤマハのケニー・ロバーツ(Kenneth ”Kenny” Leroy Roberts )の間で繰り広げられる事になります。両者ともアメリカ人という事もあり、意地と意地のぶつかり合いともいえる展開となったのです。

最終的に両者は6勝ずつ勝利したのですが(ちなみにポールポジションも6回ずつだった)、わずか2ポイント差でNS500に乗るスペンサーが初のライダーチャンピオンを獲得、ホンダにも復帰後初のメーカーチャンピオンをもたらす事になります。ちなみにこれはホンダとしては初めての500tにおけるメーカー&ライダーの両チャンピオン獲得であり、かつ21歳8カ月だったフレディは当時の最年少チャンピオンとなっています。

以後、1990年まで、ヤマハとホンダが隔年でメーカー&ライダー両チャンピオンになる、という時代が続くのですが、同時にこの時代、1980年代から1990年代前半までは500tクラスではアメリカ人ライダー全盛期でした。
スペンサー(1983、85チャンプ)、ロバーツ(1978、79、80チャンプ)の他にも、エディ・ローソン(Eddie Ray Lawson  1984、86、88、89チャンプ)、ウェイン・レイニー(Wayne Wesley Rainey 1990、91、92チャンプ)、ケビン・シュワンツ(Kevin James Schwantz 1993年チャンプ)などが続々と登場しています。
実に1978年から1993年の16年間の内13回がアメリカ人チャンピオンと言うすさまじさで、以前も以後も、こんな時代はありませんでした。世界GP、アメリカでは人気無いのになんで、と不思議だったのですが、今でも理由は知りません。とりあえず、ここら辺りは同じくアメリカでは人気が無いF-1とは大きく違う部分です。

余談ですが、アメリカ人以外がチャンピオンになった数少ない年、1982年にスズキのマシンで世界チャンプになったイタリア人、当時からその名前の表記に論争があった伝説のチャンプがFranco Uncini さんでした。Uncini にはイタリア語読みでウンチーニであり、まだ日本でのテレビ中継が無い時代で本当によかったと思います。まあ、日本の加賀(Caga)やカツオ(Cazzo)がイタリア語ではスゴイ意味になってしまうのは知る人ぞ知る話なので、なんか変な相性がありますね、日本語とイタリア語。

…話を戻します。
そんなホンダの劇的勝利に終わった1983年中にすでに開発が始まっていたのが次の500tマシン、Rの字が名前に追加され、後にホンダの看板マシンとなるNSR500でした。ただし、ここでもまたホンダは技術的な冒険に挑み、失敗する事になるのですが…



左が1984年型の新型マシン、NSR500の一号機、TYPE-1。
ゼッケン1番、前年チャンピオンのスペンサーのマシンです。他社のマシンと同じ4気筒エンジンに変更して140馬力までパワーアップをはかり、同時に燃料タンクの位置を低くしてその上を排気管(チャンバー)が通るという特殊なレイアウトを採用していました(通常の燃料タンクにみえるのは排気管(チャンバー)のカバー)。
重心を下げて安定性向上を狙った設計だったのですが、複雑な取り廻しとなったチャンバー(排気管)の耐久性の問題、そのチャンバーの熱によってキャブレターのセッティングが一定しない欠点、さらに燃料が減るにつれてマシンの前後バランスが狂う、という悪癖を持っていました。まあ要するに、なかなかまともに走らないのです。

この1984年型Type-1 NSR500はエースのスペンサーにのみに優先的に与えられたのですが、その乗りにくさに手こずったスペンサーは途中から他のライダーが使用していた前年型のNS500を使用する事になってしまいます(サーキットによってはNSR500を使用する事もあった)。このためNSR500とNS500の新旧マシンによりスペンサーは5勝したものの、リタイアなども多く、ランキング4位に終わり連覇を逃しました。
ちなみに同じホンダの“無冠の帝王”ランディ・マモラ(Randy Mamola)が3勝を上げて(おそらく全戦NS500による)より上のランキング2位に食んでるのですが、それでもメーカータイトル獲得には届かず、この年はヤマハがライダー(エディ・ローソン)&メーカーの両チャンピオンを獲得して終わります(ちなみにこのマモラもアメリカ人ライダー。何度もランキング上位に入りながら一度もチャンプになれなかった人)。

このため翌1985年には、常識的な位置に燃料タンクを戻した新型NSR500が投入され、スペンサーが12戦7勝(最後のレースは棄権してるので出走は11戦)して2度目にして2年ぶりのチャンピオンを獲得、ホンダもメーカータイトルを取り戻しています(ホンダではマモラがさらに1勝してる)。

そしてこの1985年からホンダはGP250ccクラスにも復帰、写真右側のGP250ccクラス用マシン、RS250R-Wを投入します。これはNSR500用のエンジンを半分にした2気筒エンジンを搭載したもので11500回転まで回って73馬力を出してました。この復帰後最初の250tマシンに付けられた妙に長い名前の理由は知りませんが、後に250ccクラスのマシンもNSR250に統一されます。
ついでにこの年からタバコ屋のロスマンズがスポンサーについたため、後に二輪ホンダの代名詞となる青と白のロスマンズカラーが採用されてるのも見て置いて下さい。

250t復帰を果たしたこの1985年にはホンダのエース、スペンサーが250tにも参戦し、こちらでも7勝(出走は10戦)を収めてチャンピオンを獲得してます。展示のマシンはそのスペンサーのモノ。同時にホンダは250tでもメーカーチャンピオンを獲っており、この年は250t&500tの2クラスでライダー&メーカーチャンピオンの獲得という完全制覇になりました。

ちなみに前回見たように同時に2クラス制覇したライダーは珍しくないのですが、500ccと250tという組み合わせはスペンサーのみで、以後もこれを達成したライダーは現れず、これが唯一の記録となっています(現在500tクラスは無いのでおそらく永遠に破られない)。ついでに同時にという条件で無ければ、後に1990年代末から登場するバレンティーノ・ロッシ(Valentino Rossi)が125、250、500t、さらには990tまで制覇してしまってますから、あくまで同時達成で唯一、なのに注意。

スペンサーは翌1986年もホンダのエースとして参戦するのですがこの年から右手に痛みを感じるようになり、まともに走る事もできずにこの年を終えます。そして翌1987年もほとんど出走できず、そのまま引退に追い込まれるのです。以後、復帰を試みたりもしましたが全盛期の走りは戻らず、20代前半で二度の世界チャンピオンを成し遂げたホンダの若いエースは静かにレースを去る事になります。

余談ですが、日本で本格的な世界GPのTV放送が始まったのは日本GP復活の1987年からだったので、日本人は全盛期のスペンサーを見ることができませんでした。このため、個人的には元チャンピオンの人くらいの印象しかなかったのですが、後にビデオで全盛期の走りを見て、これは惜しい才能だったなあ、と思った記憶があります。
 


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