スペンサーの跡を継いで1986年以降、ホンダのエースになったのがオーストラリア人ライダー、ワイン・ガードナー(Wayne
Michael
Gardner)でした。後継者と言っても、スペンサーが若すぎたので、この段階ですでにガードナーの方が年上でしたが(26歳)。
スペンサーが手首の病気でまともに走れなかった1986年、ホンダのワークスチームに加入したばかりのガードナーが急遽、臨時のエースとして走る事になり、計3勝してランキング2位を獲得。この年のマシンはかなり特殊なラインディングスタイルのスペンサーに合わせて造られていたとされ、ガードナーはその操縦に悩まされた中での2位でした。ちなみにこの1986年のチャンプはヤマハのファミリーマート、否、エディ・ローソン。
翌1987年、再びホンダのエースとして世界GPに臨んだガードナーはヤマハのエース、セブンイレブン、否、ローソンと、そしてヤマハに移籍していた“無冠の帝王”マモラも巻き込んでのチャンピオン争いを展開します。最終的にこの年は7勝を収め、初めての、そして最後の世界GPライダーチャンピオンを獲得するのです。
展示のマシンはその1987年のチャンピオンマシン。NSRの文字の下にはライダーの国籍を示すオーストラリ国旗が見えますが、こういった表示、1990年代以降は無くなってしまいましたね。
この1987年からホンダはNSR500のエンジンを大幅に改良、2サイクルエンジンの新しい吸気方式、ケースリードバルブを採用したV4エンジンを搭載、12000回転で156馬力まで叩き出してました。初代NSRが140馬力前後ですから、それに比べると10%ほどの馬力アップです。あまりのハイパワーにこの頃からホンダはその制御に悩まされるようになり、後の暗黒の4年間に同爆エンジンでその問題を解決するまで、その苦闘は続く事になります。この辺りはホンダエンジンの宿命ともいえ、後にあのマンセルさえもあきれさせたハイパワーなF-1ターボエンジンでも似たような悩みを抱える事になります。もっともこっちはタイヤが4つあるので転倒の危険はなく、ピケ、マンセル、プロスト、セナ、という天才たちによって自在に操られて勝ちまくるわけですが。
翌1988年はマシンの不調もあってガードナーは前半未勝利に終わり、後半でなんとか4勝を上げながらも7勝を上げたヤマハのミニストップ、否、ローソンにチャンピオンを奪われてしました。さらに翌1989年にはそのヤマハのエース、ローソンがなんとホンダに電撃移籍、ガードナーとのチーム内での勝負となって行きます。ところがガードナーは第三戦で事故により骨折、以後、長期離脱を余儀なくされてランキング10位に終わりました。最終的にこの年はホンダに移ったローソンがチャンピオンとなり、前年のヤマハでの優勝に続く二連覇を成し遂げています。
ちなみにガードナーはこの後ケガに泣かされ続け、結局、トップライダーの地位に返り咲く事なく1992年に引退する事になります。ついでに1989年にホンダでチャンプを獲ったローソンは1990年には再びヤマハに戻るというコウモリぶりを発揮、結果的に以後は鳴かず飛ばずに終わり、1992年、ガードナーと同じ年に世界GPから引退する事になります。
すなわち、この時代のホンダで世界チャンピオンを獲ったライダーは全員、長期政権の獲得に失敗してるわけで、この辺り、ロバーツやローソン、そして後にレイニーにより何度も連覇、あるいは複数優勝をしていたヤマハとは異なる部分です。なんか呪われてないか、とすら思える部分でもあります。
そしてこの1989年のローソンを最後に、ホンダは500ccにおいてメーカーでもライダーでも全くチャンピオンを獲れなくなってしまう時代、暗黒の4年間の到来を迎えます。これはヤマハの新たなアメリカン人エース、レイニーの黄金期にあたり、彼に3連覇を許し、さらにその好敵手、日本でも人気が高かったライダー、スズキのシュワンツ(この人もアメリカ人)にもチャンプを奪われ、実に4年間もタイトルから遠ざかるのです。
ただし、この1989年には後に奇跡の5連覇を成し遂げ、強すぎてつまらないとまで言われる事になるオーストラリア人のドゥーハン(Michael
"Mick"
Doohan)がホンダでデビューを果たしてます。翌1990年の第14戦ハンガリーでに初優勝を遂げると、当時ケガに泣かされていた同郷の先輩、ガードナーに代わって徐々にエースの座を固めるのですが、それでも彼の才能が開花するにはさらに4年を要したのです(ドゥーハンもケガに泣かされた面があったが)。
一方、この不信の時期、1990年からホンダは従来の4気筒等爆エンジン(4つの気筒が短時間で順番に次々と点火する)に代わる同爆エンジン(2気筒ずつが一定の間隔をあけてまとめて点火する)、詳細を省くとそれまで高回転でハイパワーながら扱いにくいエンジンから、低回転からキチンとパワーを出して扱いやすいエンジンの開発を始めてました(ある意味、2サイクルエンジンの4サイクル化みたいな部分がある)。
これが後にホンダ復活の原動力となるのです。ただし扱いやすい反面、絶対的なパワーに欠けたため、ホンダのエース、ドゥーハンは後の97年から自分のマシンは等爆エンジンに戻してしまったと言われてます(電子制御の進化によって以前の等爆エンジンよりは扱いやすくなっていたという面もある)。
1990年から1993年まで、ホンダの500tは暗黒時代でしたが、250tでは頑張ってました。1991年、92年はイタリア人ライダー、ルカ・カダローラ(Luca
Cadalora)が2年連続でチャンピオンとなり、メーカーチャンプと併せて完全制覇を達成していたのです。
ちなみにホンダは1985年に250tに復帰してから1997年までの間、1990、95年の2度以外、計11回のメーカーチャンピオンとなっていて、こちらでは無敵に近かったのでした(ただしライダーチャンピオンは何度も逃してる)。
展示のものは1992年式NSR250で前年、そしてこの年もチャンピオンとなるカダローラのマシン。この時期になると250tでもトルクで5.5sm、馬力は1万2750回転まで回して87馬力という、モンスターマシンになっております。
個人的には軽量でシンプルにまとめやすい250tのマシンのコンパクトさが一番好きで、とくに90年代の250ccクラスは今見ても美しいと思います。まあ年を追うごとに不細工になってゆく四輪のF-1に比べると今でも二輪GPのマシンは十分美しいですけどね。
この辺りの展示は1990年代のNSR軍団となってました。18番ゼッケンのマシンは1993年型NSR250。
この年もホンダは14戦6勝して250tクラスのメーカーチャンピオンになったのですが、ライダーチャンピオンはヤマハの日本人ライダー原田哲也選手が獲得してます。
1993年の250tクラスにおいて原田選手はホンダのエース、前年まで2年連続チャンプのカピロッシと死闘を繰り広げ、その戦いは最終戦のスペイングランプリまで持ち込まれます。この時、ライバルのカピロッシは4位以上でゴールすれば無条件でチャンピオン決定だったのですが、予想外の5位に終わり、そこで原田選手が優勝を決めた結果、劇的な形で王冠獲得を成し遂げます。わずか4ポイント差のチャンピオン決定であり、この辺りは同じくホンダのマンセルが絶対優位で迎えた最終戦でプロストに負け、2ポイント差でチャンピオンを逃した1986年のF-1みたいな展開でした。
当時レースを見ていた筆者は一時的にヤマハファンに変更、最終戦では泣きたくなるほど感動したのを覚えております。ちなみに最後のレース、スペインGPで途中までカピロッシと3位争いを展開していた原田選手は、最終的にトップでチェッカーを受けた後もカピロッシが5位に後退した事を知らず、チェッカー後、大騒ぎになってるピットを見て何を騒いでるんだろう、と驚いたとされます。
余談ながら当時、原田選手が日本人初の世界GPチャンピオンと報道されたりもしましたが、これはいろいろ難しい部分を含みます。1977年に今は無き350tクラスで片山敬済さんが既にチャンピオンを獲っているからですが、彼は在日韓国人なので国籍上は韓国人になるのです。
ただし日の丸の鉢巻きで出走したりサーキットで座戦を組んだりと、その行動は日本人そのものでしたから、日本出身で日本文化圏の人物という事なら片山選手が初で原田選手が2人目、日本国籍の日本人という事なら初、というのが正確な表記でしょう。ついでにこの片山選手はホンダが世界GPに復帰した時、そのライダーとして参加しており、すでに述べたように500ccクラスで1勝してます。これもまた日本人初とするかは、以上のような微妙な部分を含んでしまうのです。
ついでに原田選手のTZ250Mをタミヤが1/12でキット化したので、93年のチャンピオンマシンも、翌年の94年型ゼッケン1番マシンも買ったのですが、以来、25年以上積んだままになっております。さらについでに、タミヤの1/12にはなんとNR500があり、先の説明でも構造がよく判らん、という人はこれを買って組み立てればかなり理解できます。ホントに変なマシンですから、このキットもお勧めです。
ちなみに展示のマシンはホンダのエース カピロッシのものではなく、日本人ライダーの岡田忠之選手が乗っていたものでした。
1995年型のNSR500。
この時代になると1万2200回転まで回して180馬力以上出していたとされますから、これも化け物マシンですね。ちなみにホンダを象徴していた青白のカラーリングはスポンサーのロスマンズが1993年までで撤退したため(1994年からF-1のウィリアムズに移った)、この年からは新しいスポンサー、レプソルのカラーになっています(ちなみに1994年はスポンサー無しのためホンダのトリコロールカラーで走ってた)。
長いトンネルを抜けてホンダがようやくライダー&メ―カーチャンピオンを奪還したのが前年の1994年、展示のものはその翌年、1995年のドゥーハンのマシンです。ゼッケン1番が誇らしげに付けられており、この年も再度勝利して、以後、1998年まで怒涛の5連覇を成し遂げる事になります。これはアゴスチーニの500tクラス7連覇に次ぐ偉業となりました(ただしその後、ホンダとヤマハを行き来きしたロッシがGP500から、その跡を継いだ4サイクルエンジン、990tマシンのMoto
GPまで5連覇をしてるが500ccクラス限定なら5連覇以上はアゴスチーニとドゥーハンのみ)。
この全盛期のドゥーハンは強すぎてつまらないとすらいわれてましたしたが、彼は意外に苦労人でした。
1989年にはホンダで走り始め、1990年からは既にエースの扱いだったのに初めてGP500tのチャンピオンを獲ったのが1994年、29歳の時ですから遅咲きに近いでしょう。ただし1992年の大事故による後遺症に悩まされていた、という面もあり、必ずしも才能の開花が遅かったというわけではありません。
1992年のドゥーハンは前半7戦で5勝、2位2回と言う圧倒的な強さで勝ち進み、本来ならこの年、すでにチャンピオンを獲っていても不思議はなかったのですが、第8戦の予選で大事故を起こし、右脚に大けがを負い、この年はその後の4戦を欠場、最後の2戦に無理を押して出走するも表彰台にすら立てず、わずか3勝しかしてなかったヤマハのレイニーにチャンピオンを持って行かれてしまいます。
この年は元エースのガードナーもホンダから参戦してたのですが、こちらも初戦で骨折してケガに泣きポイントを稼げず(最終的に1勝のみ)、ホンダはメーカーチャンプも逃してしまうのです。
ドゥーハンの右足負傷は重傷で、以後もその後遺症に悩まされ続けますが、その傷がようやく癒えた1994年から5連覇の偉業が始まるわけです(それでも完全ではなく右足でブレーキが踏めないため彼のマシンには特別にハンドレバーのブレーキが付いていた)。
苦労人と言ってよく、個人的には好きなライダーです。
ドゥーハンは最終的に6連覇がかかった1999年の第三戦で再び大けがを負い、この年をもって引退に追い込まれてしまいました。このケガでこの年は完全に棒に振るのですが、それでも最強ライダーのままの引退だったと見ていいでしょう。ちなみにこの1999年は同僚のアレックス・クリビーレがチャンピオンを獲り、ホンダもメーカー優勝を決めて6連覇を成し遂げてます。
でもってこの辺りから徐々に私は二輪レースを見無くなり始め、最終的に4サイクル990tという、それってもはや耐久レースじゃん、という規定に変更された2002年から全く見なくなってしまいます。よってこれ以降は良く知らないので、全てパス(手抜き)。
ちなみにこの原稿を書きながらドゥーハンの引退からすでに20年なんだと気がついて愕然としております(笑)。そりゃ歳も取るよなあ…
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