ホンダは第一期二輪世界GPからの撤退後、会社を上げて四輪メーカーへの脱皮を計りました。
このため技術研究所の二輪部門における人員は大幅に減り、1970年代に入ると最盛期の1/3となり、さらに1973年には和光の研究所本社から分離されるような形で二輪専門の朝霞研究所(HGA)が設立されます。
このため元祖ナナハン、CB750FOURが1969年に大ヒットしたものの、以後のホンダの二輪はどうもパッとしない、従来の技術資産の食いつぶし、というような状況が長く続くのです。この間に四輪部門ではシビック、そしてアコードの大ヒットを飛ばしてます。

ここにカツを入れねばと動いたのが、CVCCエンジンの完成後、朝霞研究所に移り二輪の技術開発部門の責任者となっていた入交昭一郎さんでした。当時、まだ30代半ばだった入交さんは同期の出世頭であり、朝霞に移った直後の1974年には技術研究所の取締役に就任していました。ホンダの二輪部門の復活が彼に託された、と思っていいでしょう。
後にバイク市場における壮絶な販売競争、ヤマハからホンダへの宣戦布告で始まった1970年代末から1980年代前半のHY戦争でも入交さんが陣頭指揮を執り、事実上、ホンダの勝利に終わらせてますから(ただし河島社長の全面的なバックアップがあった)、優秀な人ではあったのです(その代わり過度な割引販売などによりホンダも無傷ではすまなかったけども)。

ちなみにこの出世競争において入交さんに続いていたのが1963年同期入社のF-1番長、四輪部門の技術責任者となった川本さんで(2年遅れて1976年に技術研究所の取締役就任)、後に両者は久米社長の後継者、四代目ホンダ社長の座を巡って競争となり、最終的に1990年、川本さんがその座を勝ち取ります

ちょっと脱線すると、入交さんは川本体制の下で本社の副社長、そして技術研究所社長に就任するのですが、川本さんと経営方針を巡り対立したと言われており、その結果、ホンダを去る事になりました。
その後、GMに移ろうとしたのですが、当時はアメリカのライバル会社に行くのは日本的な商道徳に反する、とされた面もあり中止、完全に別業界だったゲーム会社のセガに移ってその経営にトドメを刺す事になります。
さらに後に入交さんは旭テックの社長にもなるんですが、ここでも子会社倒産に伴う大幅減資をやっており、運が悪いのか本人の経営能力に問題があるのか判りませんが、とりあえずホンダとしては川本さんで正解だったのかもしれません。

さらに脱線すると、両者は同期入社なんですが川本さんは大学院卒のため、入交さんの方が3歳若く、、その次の社長も狙えたはずでした。実際、川本さんの跡を継いだ五代目 吉野社長は二人と同期の1963年入社で入交さんと同年齢でしたからその可能性はあったはずです。おそらく入交さんを技術研究所社長にしたのは、そういう意味もあったような気がするんですが…。がまんできなかったんでしょうかねえ…。
なので1963年入社組は3人の社長候補がいた事になり、その内2人は実際に社長にまで上り詰めた、という北斗神拳継承者争いのような世界が展開されていたのでした。

さて、話を戻しましょう。
朝霞研究所で二輪の開発責任者だった入交さんは、その技術的な停滞打破と売り上げの回復にはレースへの復帰が一番効果的である、と判断しました。レースに勝つための技術的な蓄積は、彼も3000cc 世代のF-1エンジン開発に関わってましたから(次回以降、後述)、良く知ってました。そしてバイクは車以上にレースで勝つことによるイメージ向上、そして売り上げへの貢献が明確だったのです。

幸い、和光の四輪部門の技術研究所本部でもレース復帰の機運が高まっていました。
河島さんが本社社長になったあと、技術研究所の社長になっていた久米さんがその旗振り役となっていたため、話は具体性を帯びて来ます。どちらかというと現実主義者でレースにそれほど熱心ではなかった河島社長も最終的に予算に限度を付け、市販車の開発に影響を及ぼさない、という条件でこれを許可するのです。

この結果、ホンダの二輪車部門が市販車CB750FOURをベースにした耐久レース用マシン、RCB1000を開発、1976年から耐久レースに参加して、いきなりチャンピオンを獲ってしまった事はすでに述べました。が、ゼロからの開発では無いためレースマシンから市販車への技術的なフィードバックが弱く、やはり世界GPに参戦を、という事になっていったようです。

このため、海老沢さんの「F-1 地上の夢」によれば1977年10月31日に和光の技術研究所で二輪、四輪のレース復帰に対する会議が開かれました。この席で二輪部門の技術責任者、入交さんの主導で二輪の世界GPはあっさり決定され、1979年から参戦という線で話がまとまります。対して四輪のF-1復帰は、四輪の技術責任者であるF-1番長の川本さんが周囲のノンキな意見に激怒、へそを曲げて大荒れになるのですが、それはまた後で触れます。

とりあえず、これを受け、ホンダは1977年11月に「1979年から世界GP500tクラスへの復帰」を宣言、注目を集めます。その計画の総責任者は入交さん、その下で開発現場を統括したのは後に六代目社長となる福井威夫さんでした。
その新型マシンの開発は会議から3か月後の1978年2月、朝霞研究所(HGA)において総勢100人近い人数を集め、かなりの規模でスタートします。しかし、ここからホンダは世界GPへの復帰まで、さらには復帰してからも数年間、かつてない茨の道を歩むことになるのです。

NRブロックと呼ばれる事になるこの開発チームの開発責任者(LPL)に指名された福井さんがエンジンの方向性を決めたのですが、4サイクルエンジンが看板のホンダであること、さらに1976年ごろまでの世界GPではまだ4サイクル500cc でも勝てた時代だったことなどから、当時主流になっていた2サイクル エンジンを採用しない事に決定してしまいます。
この結果、4サイクルの楕円ピストンという他に類を見ない異形のエンジンの開発が始まり、そしてそれは最後まで満足のゆく形にはならなかったのです。



ホンダの12年ぶりのGPレーサー、ホンダNR500の1号機、1979年第11戦、イギリスGPから参戦した0X型。ちなみにNRは開発プロジェクト名、New Racer の頭文字らしいです。
楕円ピストンエンジンで有名なマシンですが、車体前半部もいろいろ変わっています。この点を横からの写真で確認しましょう。



まずはカウリングが正面風防部と車体下部とで二分割された構造になっているのに注目。さらに下側のカウルのネジ止めがいろいろ特殊なのも見てください。

これはエビ殻フレームと呼ばれる、一種のアルミモノコック構造によるものです。
ハンドルから後ろで車体下側を覆うカウリングは箱型のアルミ製となっていました。この部分の外板は約1oの厚さを持ち車体強度を負担、さらにこの中に入れるエンジンにも強度を負担させて一種のモノコック構造となっているのです。これによりフレームを従来より貧弱な、すなわち軽いものにしても強度を維持できるようにしています。ただし同時にエンジンを箱型のモノコック部分から降ろさないと整備や調整が出来ないという欠点も抱えていました。

それに加えて、このフロンドサスはどういう構造なの、とか燃料タンクの下にあるのまさかラジエター?とか疑問が次々に出て来ます。
フロントサスは当時では珍しい倒立型にした結果、こういった形になったようですが、なぜ筒が二本並行して置かれて前側にスプリングが見えてるのか、そもそも何で前側だけ車輪カバーと一体化してるのか、未だにどういった構造なんだか私は知りません。
そして燃料タンク下の黒いものはまさにラジエターで(笑)、サイドラジエターと呼ばれてました。これが何を狙ったものなのか私はよく知りません。普通に考えれば冷却に不利なはずですが…
つーか、このラジエター配置、ライダー火傷しません?もしライダーはスーツで大丈夫だとしても、整備員、危険すぎません?ついでにあまり頭の良くない尾崎(仮名)がこのバイクを盗んで走り出したら確実に火傷しません?尾崎(仮名)大ピンチじゃありません?

さらに言えば、カウル上で垂直に切り立った短い風防ガラスも気になります。ここで気流を上に吹き上げる事でライダーに風が当たらない設計で、前面投影面積が小さくなり空気抵抗が減る、とされてます。しかし、それはすさまじい乱気流を発していたはずで、時速100qあたりから上では逆に相当な空力抵抗源になっていたと思われます。逆効果だったんじゃないかなあ…。前部投影面積だけで単純に空気抵抗は減りませんから、ちゃんと風洞実験とかやってたんですかね…
ついでながら、このNRは前面投影面積、正面から見た大きさの小型化にかなり気を使っており、従来のレーシングタイヤを2インチ小さくした16インチホイールを採用してました。この辺りも、おそらく風洞実験とかでキチンと流体力学的な裏付け、取ってない気がしますねえ…。

とりあえず以上の点は翌年の1980年型のマシンではほぼ全て常識的なモノに変更されてしまっていたので、やはりあまり効果は無かったのだと思います(涙)。そして、そんなマシンですから、デビューとなった1979年は世界GP第11戦イギリスから後の2戦にだけ参加(第12戦チェコでは500tのレースが無かった)、初戦イギリスでは2台ともリタイア、最後のフランスGPは予選落ちで終わりました。
さんざんな世界GP復帰だった、と言えるでしょう。



“伝説の”4気筒楕円ピストンエンジンの主な構造部。

円形ではない、楕円ピストン4つでV型4気筒なんですが、ピストン下のコンロッドは各2本、プラグも2本、さらにバルブは各8つですから(スペック上は8バルブDOHCという前代未聞のエンジンとなってる)、基本構造は8気筒の多気筒エンジンであり、その気筒を2本ずつ合体させて楕円にし、4気筒にまとめてしまったもの、というのが見て取れるでしょうか。単純にハイパワーエンジンを造るだけなら、ほぼ無意味な構造なのでに、わざわざホンダがこんな方式を選んだのには、当然、理由がありました。

まず、エンジンの物理的な力、回転力であるトルク(N)を求める式を見て置きましょう。

エンジントルク(N)=(正味平均有効圧力)×(排気量)×(爆発回数)/(2π)

最初の正味平均有効圧力、ピストンを押し下げる圧力は、どれだけ混合気を取り込んで爆発させるかでほぼ決まり、バルブを多くして一気に大量の混合気と取り込む、または圧縮比を上げることなどで一定の上昇効果が得られます。次の排気量は500ccと決まってますから、これは同クラスのエンジンなら全て共通であり創意工夫の余地はありません。

最大の問題は爆発回数(力を生じた回数)で、同じ行程数内に倍の回数の爆発燃焼を行う2サイクルエンジンは4サイクルの倍のトルクが出ます(実際は2サイクルエンジンにはさまざまなエネルギー損失があるのでその差はもう少し小さいが)。この単純な物理法則により、4サイクルエンジンは圧倒的に不利なのです。逆に倍の燃料を燃やす2サイクルは燃費で不利なのですが、短距離スプリントレースの世界GPではこの点はほとんど問題になりませんでした。つまり4サイクルエンジンが一方的に不利になります。

ちなみにこの式は本来、力ではなく仕事&エネルギー(W&E)の量、ジュール(J)を求めるものです(単位・次元はNmでトルクに等しい。ただし加速度ベクトルの向きの関係でトルクはエネルギーにはならない)。
圧力単位を体積(排気量)単位で割るのは、力のかかった距離を求めるのに等しいので(=N(ニュートン)×m(メートル))、この式ではピストンの上下運動距離の理論値を求めてる事になります。その後、トルクはクランク軸で円運動の力に返還されますから、トルクの大きさを求めるため最後に2πで割って回転軸の半径を出してます(円周は2πr)。

以上から、レース中の速度で対抗するだけの馬力を稼ぐには、トルクの正味平均有効圧力か、その後の回転数のどちらかを倍、あるいは両者の乗算した数を倍にするしかありません(速度を決める馬力はトルク×回転数)。それ以外の数値は動かせないのですから。

が、同じ排気量で正味平均有効圧力を倍近くまで上げるのは物理的に不可能であり、よって回転数の上昇が現実的な対策となってきます。この場合、トルクが半分なんですから、当然2倍の回転数が求められます。
回転数を上げるには多気筒化が最も手っ取り早く、理想的には倍の8気筒が必要となります。それでも多気筒化はホンダの得意とする技術でしたから、当初はなんとかなる、と思われたようです。
ところが世界GPでは500tのエンジンは4気筒のみでギアは6速までという既定があり、このため開発はいきなり暗礁に乗り上げます。

当時の平均的な2サイクル 500tGPマシンの性能は凡そ8sm近いトルクを出し1万回転まで回して100馬力以上でした。これが4サイクルだとトルクは半分の4sm前後が限界ですから倍の2万回転まで回さなければ馬力、すなわち速度的には追いつけません。
ホンダが1967年に投入した最後の4サイクル4気筒 500ccマシン、RC181が最大でも1万2000回転だった事を考えると、かなりきつい数字です。前回紹介した驚異の6気筒350tエンジン、RC174Eでも1万7000回転までですから、やはり多気筒化、8気筒化は不可避という事なのです。しかしエンジン規定により、それはできません。

さらに2サイクルエンジンは構造が簡単なため、同じ馬力なら4サイクルに比べて20s以上は軽くできたとされます。これは車体重量の15%以上を占める数字であり、無視できません。
よって、その重量差を補う必要があり、より大きな質量を動かす以上、より大きな「力」を発生させる必要があります。ところが4サイクルエンジンでは純粋な力であるトルクは半分しかありません。それを補うはずのギアも6速固定ではギア比(減速比)の調整、テコの力ででこれを大きくするにも限度があります。

よってどんなに馬力を上げて最高速度があがっても、純粋に力、トルクの大きさが問題になる加速では不利で、特に低速時の加速は厳しくなるはずです。すなわちどんなに最高速度を上げても、そこに達する前に直線は終わってる、という状況になり勝負になりません。いわゆる立ち上がりでついて行けない、という状態です。ギア比を加速重視に設定する、という手もありますが、6速までしか使えないので、そうなると今度は最高速度が落ちてしまい、馬力を上げた意味がなくなります。

ここまで不利な条件が並ぶ以上、普通に考えれば2サイクルで行くべきだと思うのですが、ホンダはあえて茨の道を選んだのです。これを勇気と呼ぶかは個人差があるところですが、筆者的には例の空冷エンジンと同じ、物理法則的に不可能な事に挑んだ感が強く、なんでそうしちゃったんだろう、と思う部分ではあります。

そもそもピストンは大きく重くなるので高回転に向かないはずですが、シリンダーのボア(直径)も大きくなるので吸排気バルブの面積を大きくでき、これで一気に大量の混合気を吸い込んで燃焼させる事で高回転化を狙ってます。当然、吸気(取り込める混合気)が増えれば正味平均有効圧力が大きくなり、トルクも増えますから確かにメリットは大きいのです。
このために気筒あたり8バルブというスゴイ吸排気機構を採用、これによってトルクは4.6sまで上がり、回転数も2万回転の達成には失敗したものの1万8000近くまで上げることに成功します(最終的には19500回転まで達成した)。

が、それでも世界GPでは全く勝てませんでした。
理論的な性能限界以前に、複雑なこの機構はトラブル続きだったのです。世界GP復帰の1979年に2戦だけ出走したものの、一度も完走無し、1980年は3戦だけ出場して2回の完走が精一杯、1981年は改善されるどころかさらに悪化して6戦出場で完走1回に終わっています。最後に走った1982年の2つのレースはまともなデータすら見つかりませんでした(多分完走無し)。
この結果、ホンダは4サイクルエンジンを諦め、1981年から普通の2サイクルエンジンによるNS500の開発を開始、1982年にこれを投入して、ようやく年間を通してまともに出走できるようになり、その後メーカーチャンピオンに帰り咲く事になります。

余談ですが、無茶とも思えるこれだけ革新的な事をやったのは、世界GP復帰にあたり、NRブロックには以下の課題が課せられていたからかもしれません。

1. レースを通じて革新技術を生み出すこと
2. 将来の核となる人材を育てること
3. 3年以内に世界チャンピオンになること

この目標を掲げながら、若いスタッフが中心となっての完全な新規開発だったため、やはり無理が出たのだろうなあ、と思います。実際、その開発は迷走を重ね、1979年の世界GP復帰を宣言しながら、NR500がまともな試験走行に成功したのはその1979年の5月でした。この結果、すでに見たようにこの年の世界GPはわずか2戦だけの参戦で、そして完走もできずに終わったわけです。

ちなみに1979年のシーズン終了後、イギリスのドニントンパークでテスト走行をしたところ、コースレコードから1周あたり2秒遅れのタイムしか出ないという衝撃の事実が判明しました。勝負にならないレベルであり、関係者は落胆したと思われます。


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