■嘉手納と沖縄



中はこんな感じ。
やや広めな部屋に地形模型と写真パネルの展示だけ…と見せかけて、かなり内容の濃い展示でした。
「そういった方面」に興味のある人は訪れる価値がある施設です。



基地が出来る前、戦前の嘉手納地区の地形模型。
画面左奥が南、手前が北です。
手前の青と赤のヒモが後に基地周辺に造られた道路、その奥の直線のヒモが嘉手納の滑走路です。

大戦中、この地区にあった日本軍の二つの飛行場の内、北が海軍の読谷(ヨミタン)、いわゆる北飛行場、
そして南側が陸軍の嘉手納、いわゆる中飛行場になります。
後に読谷は放棄され、戦後の米軍は嘉手納基地の拡張に努めるのですが、
元々は海軍の読谷航空基地の方が大規模で、上陸時の米軍もこちらを主要目標にしてました。
ただし、やや北に位置するのため丘陵部が多く、2000m級以上の滑走路の建築は困難で、
恐らくそのため南側でより平地が多く拡張性があった嘉手納を米軍は後に基地にしたのだと思います。

ついでに、北と中飛行場があるなら南もあり、これは牧港のすぐ南側、那覇市街の北にありました。
すなわち那覇空港とは別の基地なんですが、1944年末に着工したものの未完成に終わってます。
後に米軍が占領後、航空基地にしたものの、あまり利用された形跡がありません。
ちなみに現在の牧港補給地区、いわゆる米軍のキャンプ・キンザーがある辺りに位置してました。


模型ではこの写真の上側が西、すなわち海で
この辺りの渡具知海岸を中心に米軍は上陸して来た事になります。
が、ご覧のようにこの一帯は平地で防御に適さないと判断され、
このため最重要とも言える航空基地が二つもあったのに、
日本軍はほとんど組織的な抵抗をせずに放棄、よってこの一帯の戦闘は小規模なものに限られました。

ちなみに日本側の事実上の公刊戦史書である戦史叢書 第11巻、沖縄方面陸軍作戦編によると、
沖縄防衛を担当する第32軍司令部は、先に見た伊江島の飛行場と、
この二か所の飛行場の併せて三か所を、どうせ我が軍は使えないんだからアメリカ軍の上陸前に破壊しましょうと、
やや皮肉を感じる意見具申をしたとされます。
が、結局、伊江島飛行場以外の破壊は大本営から許可が下りませんでした。

それなのに、ここの防衛作戦を放棄してしまったため、上陸直後から
米軍は読谷、嘉手納の両基地を極めて有効に活用して日本軍を苦しめて行きます。
この辺りのチグハグぶりはどうも理解に苦しむ所です。

ついでに読谷飛行場に日本海軍の秘密兵器であった特攻兵器 桜花が
全く無傷で放棄されていたのでアメリカはその回収に成功しています。
これをドイツの無人飛行爆弾、V-1の劣化コピーと判断した上で、バカ爆弾(Baka bomb)という
あまり他に例を見ないコードネームをアメリカ軍は与えました。

でもって沖縄線において大隊長を務めていた陸軍士官 伊藤孝一さんの回想によれば、
沖縄防衛の第32軍司令部は最後まで米軍が南部の海岸線(例の飛行機からみた浜辺である)から来るか、
それともこの島の中心部から上陸して来るか判断出来て無かった、との事。
…細長い沖縄の島に対し、何を好き好んで南端部から上陸しますかね。100q南北縦断作戦ですよ。
そして南部にはまともな飛行場は無く、対して中部の海岸線のすぐ横には二つも飛行場があるわけで、
私のようなボンクラでも、上陸地点はここしか無いと思いますし、米軍もまた、そう思ったわけです。
この大隊長の人も同じことを述べてますから第32軍司令部だけがこれを理解出来て無かった、という事になります。
悲しいですね。


■Image credits: Official U.S. Navy Photograph,
now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-339237



米海軍撮影による上陸二日目、4月2日の渡具知海岸付近。
海は敵艦で一杯というおなじみの(涙)状況です。こういった大規模上陸は太平洋で何度もやった上に、
前年にノルマンディにおいて人類最大の上陸作戦をアメリカは経験してますから、お手のモノでしょう。

二日目なのに既に海岸から内地に伸びる大きな道路が二本以上整備されてるのが見てとれ、
さらに右手前には複数のトラックが停まっている物資集積場のような場所まで見えてます。
また、内陸部には水陸両用戦闘車両であるLVT(Landing Vehicle Tracked)が展開して、
海岸に対して警戒線を構築してるのが見て取れます。
周囲にはさらに無限軌道の軌跡が見えますから、もっと手前にもLVTは居るようです。

これらが道路を無視して進入るところから、おそらく周囲に地雷原とかは無かったのでしょう。
実際、アメリカ陸軍の記録では拍子抜けするような平和な上陸だったとされてます。
ちなみに地面から太陽光の反射が全く無いので、これ畑ですね。
(4月2日でも沖縄なら田植えが出来た)

ただし戦闘は無かったとはいえ、上陸前の米軍による艦砲射撃、爆撃で
地元の住民の方々は壮絶な被害を受けています。
この辺り、、民間人に実際にどれだけの被害があったのか正確には判りません。
とりあえず凄惨な状況だったのは間違いないはずです。

沖縄の米軍占領時代、1970年代初期に産まれた沖縄民謡に「艦砲ぬ喰ぇー残さー」という歌があります。
この歌は琉球語のため判りにくいのですが、曲名は「(今生きてる私たちは)艦砲射撃の食い残し(で生き残った)」
という壮絶な意味であり、当時の沖縄の人たちにとり、どれほど艦砲射撃が恐ろしかったが判ります。
この歌の歌詞は、極めて素朴なのですが、素朴な分だけ、とても怖いです。

ついでにこの歌の二番にあるように、占領後の米軍も民生はなかなか手が回らず、
一時は住民の飢餓が深刻な問題となりました。
よって米軍から食料を盗み出す者が多かったのですが(奪った食料を隠語で「戦果」と呼んだらしい)
当然、捕まればただでは済まなかったわけで、この辺りの歴史も凄惨でした。

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