■嘉手納にて
一階のホールのような場所にあった嘉手納基地の全景航空写真。
画面右が北となり写真下に見えてる白い線が1500mの長さを示してます。
ここは東京の港区や大阪の住之江区に匹敵する面積を持ちますから、当然、滑走路部分だけが基地ではありませぬ。
滑走路の左側に見えてる地区は軍人と家族の居住区で、さらに右側の緑地のほとんどは例の弾薬庫地区です。
ね、広大でしょ。
ちなみに、この道の駅は滑走路の右下横、滑走路の終端部の上あたりに位置してます。
現在は無くなってしまった読谷航空基地は、写真の右上、畑の中を横一文字に走る大通りの横、
ちょうど平地の真ん中付近にある大きな交差点の辺りに位置してました。
この大通りは、一時、米軍が使用した時代の滑走路跡の一部でしょう。
(現在の読谷村役場周辺一帯と思えばほぼ間違いない)
ついでにながら今回は訪問に失敗してるのですが、
読谷村役場の北側には日本海軍時代の掩体壕が一つだけ残っています。
そしてよく知られる義烈空挺隊、陸軍による航空急襲部隊の攻撃が行われたのも、こちらの読谷飛行場でした。
いわゆる義号作戦で、1945年5月24日の夜22時30分ごろ、
陸軍の空挺部隊が読谷飛行場に97式重爆で強行着陸、これを襲撃したものです。
アメリカ側の記録、例の陸軍歴史部(US army
Historical Division)のOKINAWA:THE LAST BATTLE 1948発行版によると、
5月24日の夜、計7回に渡る日本側の大規模空襲があり、
その最後に飛んできた5機の双発爆撃機(97式重爆)が伊江島方面から南下、
22時30分ごろ、読谷に強行着陸を試みたとされます。
(ただし戦史叢書第11巻によれば日本側の大規模攻撃は翌日の25日であり、
この日に特攻機100機以上、さらに300機近い機体の出撃を記録してる。アメリカ側の記録は、この辺りが混乱している可能性がある。
ちなみに海兵隊側の記録だと、24日から25日にかけて大規模空襲があったとされている)
この内4機は対空砲に撃墜されてしまいますが、最後の1機が胴体着陸(最初から脚を出さず胴体着陸した)に成功、
確認されただけでも8人の兵員が滑走路に侵入、周囲の機体などに手りゅう弾を投げ、これを破壊しました。
アメリカ側の損害は完全破壊された全損(destroyed)機がF-4Uコルセア 2機、C-54輸送機 4機、
PB-4Y-2(B-24の海軍改修型。ほとんどB-24のままだったY-1をさらに改良、尾翼も一枚翼に変更された) 1機、よって計7機。
さらに損傷(damaged)を受けた機体はコルセア 22機、F-6Fヘルキャット 3機、PB4Y-1(海軍向けのB-24) 1機 の計26機。
すなわち、何らかの損害を受けた機体は33機。
さらに加えて600本の燃料入りドラム缶、計7万ガロン(26万5千リットル!)の燃料が燃えてしまったとされますから、
相当な損害だったと見ていいでしょう。アメリカ側も虚を突かれた部分があったように見えます。
その後、襲撃開始後から1時間以上経った23時38分に米軍の増援が到着、
そのころまでには日本の襲撃部隊は鎮圧されてしまったようです。
ちなみにアメリカ側の戦死は2名、他に18名が負傷とされています。
そして作戦終了後、アメリカ軍が確認したところ、10人の日本兵が読谷飛行場内で殺害されており、
(全員が攻撃に参加できたのか、あるいは上で見た8名以外は早くに戦死してしまったのかは不明)
さらに3名が胴体着陸した機内で遺体になってるのが発見されました。
残りの4機は14名ずつの搭乗員を乗せたまま墜落、全員死亡していたので、
最終的に69名の戦死をアメリカ軍は確認しています。
が、14名ずつ5機ですから、全部で70人居たはずで、これでは一人足りません。
これだけの損害を与えた兵員ですから一名でも逃したら問題で、アメリカ側はこれを探し求め、
翌25日に5qほど北の残波岬で一人の日本兵を発見、これを殺し、
最後の一人まで掃討された、という事になっています。
(義烈空挺隊の隊員は即席の迷彩服を着ていたため他の軍人との識別は可能だった)
…が、そもそもなぜ読谷から日本軍の居ない北に逃げたのか、
どうやってその兵士が読谷に突入した空挺部隊の人間だと判ったのか、
確かに5機は読谷で撃墜されてるものの、行方不明の3機のどれかの搭乗員だった可能性は無いのか、
といった辺りの疑問は残ります。
実際、この点に関しては日本側に意外な記録が残っていたのでした。これに関してははまた後で。
ちなみに、この辺りの状況について戦史叢書の36巻では、
アメリカ側の記録として軍事ジャーナリストのR シャーロッド(Robert sherrod)の著作、
「第二次大戦における海兵隊作戦(History of marine corps operations in
WWII)」なる本を資料として取り上げ、
これを義烈空挺隊攻撃に対するアメリカ側の報告として採用、記述してるのですが、
私が確認できた範囲ではシャーウッドはそういった名称の本を書いたことありません。
つまり、そんな本は存在しないのです…。
海兵隊が公式にまとめた沖縄の戦史については1968年の発行の
「第二次大戦における海兵隊作戦(History of marine corps operations in
WWII) 第五巻」
という本が確かにあるのですが、著者はBenis M. Frank and Henry I.
Saw, Jr.です。
そして私が見た限り、義烈空挺隊の記述は5月24日に読谷基地に空挺攻撃があった、という一言だけです。
なので、この辺りの戦史叢書の記述は全て信用できないと判断します。
…ホントに誰だ、こんな無責任な戦史を編集したヤツは。
興味のある人は、現在はネットでも読めますから、戦史叢書 36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦の578Pを見てください。
とりあえず、本記事ではその内容に関して資料として取り上げる信憑性を認めず、とします。
そして日本側の記録らしい記録は義烈空挺隊の上部組織に当たる第一挺進団の司令官だった
中村勇大佐による「空挺隊の行動」という回想録くらいのようで、しかも私はこの本を持ってません。
よって、とりあえずそこから引用してる戦史叢書 第11巻から孫引きします。
それによると当初は5月23日が作戦予定日だったのが悪天候で延期され、翌24日の18時50分、
作戦部隊は熊本飛行場を離陸して沖縄を目指しました。
(この辺りの戦史叢書の記述は「熊本飛行場を離陸して勇躍南下した」です。
事実を客観的に記述すべき戦史において、なんで“勇躍”という主観的な言葉を入れるんでしょうね。
ホントにどこの誰だ、こんな本を編纂した責任者は)
出撃は12機、その内1〜2機が遅れて出撃したようですが、とりあえず全機が離陸したようです。
が、最終的に4機が目標に到達できず引き換えし(故障なのか夜間で目標を見失ったのかは不明)、
残りの8機が沖縄本島を目指す事になりました。
最終的に22時11分に飛行場突入の無電が入り、北飛行場(読谷)に6機、
中飛行場(嘉手納)に2機が胴体着陸、と報告があったとされます。
が、実際は既に見たように基地上空に到達したのは5機のみ、
つまり読谷上空到達前に3機が失われ、さらに基地上空で4機が撃墜された事になります。
最終的に突入に成功したのは読谷の1機だけであり、時間も22時30分ですから、
日本側の報告と20分近い時間のずれがあります。
そして、この突入成功報告は突入部隊からではなく、直協重爆という、よく判らない機体からの報告とされ、
これはどうも戦果報告のために付き添いで飛んでいた機体らしいのです。
この機体が上の12機に含まれるのか、どうもはっきりしませんし、生還したのかも判りません。
そもそもアメリカ側に記録は無く、この機体が現場に到達していたのかはどうも怪しい気がします。
ちなみに攻撃終了後、日本側は戦果確認のため100式司令偵察機を飛ばしており、
その報告によると、北(読谷)飛行場は機能喪失、中(嘉手納)飛行場は使用拘束(修理中との事?)と報告してます。
が、実際は25日の朝の段階で読谷は既に使用を再開、嘉手納は最初から被害なしでした。
とりあえず信頼できる資料から再現できる5月24日の義烈空挺隊の攻撃は以上の通りとなります。
…ただし、実はこの作戦には意外な続きがありました。
沖縄戦中に現地から発信された報告電文をまとめて残した「南西諸島方面電報綴」という
当時の海軍による資料が防衛省が保管してる戦時資料に現存します。
これを見て行くと、昭和20年6月12日 16:43 21340番電 の二番報告に驚くべき事実が述べられていました。
未だにほとんど知られてない幻の報告なので、ここに全文を転載しましょう(カタカナはひらがなに変換)。
二
、 義号作戦に参加し北中飛行場に強行着陸す任務終了後敵中突破
「具志頭」付近に到達せる一名の報告に依り判明する戦果左の如し
飛行機炎上150機集積所炎上130個所任務終了後各個に日本軍の所在地に前進せりと
あっさりとした文章ですが、驚くべきことに義烈空挺隊には一名の生き残り隊員が居た、というのです。
この隊員はあの壮絶な作戦を生き残り、アメリカ軍で溢れていた首里、那覇周辺を単独で突破、
その上で当時アメリカに包囲されつつあった沖縄最南端部の村、
具志頭村まで20日ほどかけて徒歩でたどり着いた、という事になります。
読谷から具志頭村まで直線距離で約35q、実際に歩けば50q近いはずで、しかも最前線を通過しますから
凄まじい敵中突破と言えます。
上で見たようにアメリカ側は残波岬で掃討した日本兵が最後の一人としてますが、これに確証はありません。
対してわざわざ崩壊しつつある日本軍陣地に乗り込んでいって、こんなウソを述べる理由も思いつきません。
戦果の報告がやや過大ですが、それでも機体、集積所、ともに焼いたことをキチンと指摘しており、
当時、アメリカ占領地区のど真ん中で起きた戦闘を当事者以外が知る事ができたとは思えませんから、
それなりの信憑性があります。
にわかには信じがたい話ですが義烈空挺隊は精鋭部隊であったようなので、
あるいはそういった事が可能だったのかもしれません。
この辺り、壮絶、という言葉しか思いつかないのですが、電文には隊員の名前すら無く、
果たしてこの人物は沖縄最後の戦いで死亡してしまったのか、
それとも無事生き残って、戦後の日本でひたすら沈黙を守ったのか、個人的には気になる所です。
以上、ほとんどの記述で全滅したとあっさり述べられ、
現地では玉砕の碑まで建てられている義烈空挺隊ですが、
実は1名が生き残って敵中突破に成功した可能性が高い、というお話でした。
ちなみに当旅行記で何度も引用するアメリカ陸軍の公刊沖縄戦史、
US army Historical
DivisionのOKINAWA:THE LAST BATTLE
は
ネットで読めるほか「沖縄 日米最後の戦闘」という邦題で外間正四郎さんによる日本語版が出ています。
この日本語版、画像、地図、さらには一部内容を端折ってしまってるんですが、
見事な日本語による翻訳の上、英語版ではよく判らない地名を全部、沖縄出身の外間さんが
キチンと漢字に置き換えてくれてるので、とてもありがたい本になってます。
(現地の連中が耳で聞いた音で表記されてるので読谷は英語表記ではYontanとなってたりするのだ)
興味のある方には一読をお勧めします。
その道の駅にあったM&M’Sみたいなキャラの人形。
どうも嘉手納のゆるキャラ、いもっちさんで、甘藷を擬人化したものらしいです。
ついでに奥の白い龍は屋良ムルチなる大蛇だそうな。
この近所にある茂呂奇なる沼に住んでたという伝説がある蛇なのだそうですが、
解説を見ても何か支離滅裂な内容で、正直、よく判りませんでした…。
で、いもっちの手には謎のボタンが。
上に「押してみるっち」なるセリフがあったので押してみたっち。
…何も起こらなかったっち。
………
…さて、ではそろそろ次の目的地に移動しましょうか。
といった感じで今回の本編はここまで。
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