■那覇の中心地へ
最初にお断りしておくと、今回の旅行記では運転を私がやってるため、移動中の写真はほとんどありません。
空港でレンタカーを借りた後、地雷映画男が推薦するソーキそば屋さんに向ったのですが、
残念ながら駐車場が満車で入れず、じゃあ、国際通りに支店があるんでそっちに、
という事になり、私でも名前くらいは知ってる那覇の繁華街、国際通りに向ったのでした。
とりあえず、近場の駐車場に停めてしまう。
街の中心地近くの駐車場にしては広いし、安いな、と思ったんですが…
地雷映画男が、ここら辺りから国際通り、というものの、なんか妙に寂しい。
これってただの大通りでは…と思ったら、
こくさいとおり、と台座に書かれたシーサーが。
あ、ホントにここなのか。
後で判明するのですが、ここは通りの東の外れで、
もうちょっと先、モノレールの駅から西が中心部だったのでした。
その先にあったモノレール駅と、駅前の巨大な焼き物シーサー。
ちなみにモノレールの駅は牧志(まきし)駅で、国際通り駅という名前じゃないんですね。
なるほど沖縄はシーサー推しなのだな、とここで初めて知る。
ついでに、さいおんというのは広場の名前らしいですが、ハートマークと「うふ」については詳細不明…
さらについでにこの下の石板に嵌め込まれた案内板には「楽しーさー」「ウレシ―サー」なる
言い回しが連発されており、この石板、50年はもつだろうから、50年後の皆さんは
これを見てどう思うのだろうか、などと考える。
ちなみに国際観光都市ですから、それに英訳もついてるのですが、
このダジャレを完全に無視した無難な翻訳になってました。
よくやった、翻訳担当の人。
でもってその石板にあった観光案内で、この近くに登り窯のある焼き物街があると知る。
地雷映画男もよく知らぬ、という事なのでとりあえず先にそっちを見て見ることに。
そこに向かう途中、賑やかな音楽が聞こえて来る。
なんだろうとそちらに向うと、その名も壺屋小学校なる場所で陶器まつりが開催中でした。
本日が最終日。これは覗いてみなくては。そしてまさかの小学校校門にまでシーサー。
ここはシーサーの国なのだと痛感する。
余談ですが、今回の旅行中、各地で見た解説によると沖縄にこれが入って来たのは15世紀、
沖縄の琉球王朝(明治になって日本に取り込まれて廃絶する)の初期、
日本だと室町時代だそうで、かなり遅いな、という感じです。
言うまでも無く日本の狛犬と同じ、中央アジア、オリエントのライオン像が
ユーラシア大陸の東の果てに流れ着いたものです。
インド、北アフリカ、中近東など、中世辺りまでライオンがキチンと生存してた地域と、
そこに隣接したヨーロッパでは、キチンとライオン像のまま広まるのですが、
極東にはパンダは居てもライオンは居なかったため、中国でその情報がゆがめられてしまいます(笑)。
「二対のライオン像が魔除けになるアル」
「ライオンなんて見た事ないアル」
「ワタシが思うにこんな感じアル」
「アイヤー、ナイスクリーチャー爆誕アル」
という感じで生まれたと思われるのが当サイトの旅行記で何度も紹介した中国南部辺りの狛犬です。
形状的に、蘇州、寧波あたりの文化がほぼそのまま沖縄に入って来て
現在のシーサーになったと思っていいでしょう。
対して日本の狛犬は、その名の通り、高麗、朝鮮半島経由で平安期には伝来してました。
沖縄と違って北回りなんですが、どちらもシルクロード経由なので、長安、西安あたりの西域から南北に別れたのでしょう。
ところがドンスコイ、平安期の狛犬は貴族の邸宅内の魔除けであり、二体でセットながらかなり小型でした。
さらに平安期の狛犬は木製の置物が多く、しかもタテガミのある犬っぽい造形、
ある程度ライオンを連想させる形状のものがほとんどです。
ところがこれが鎌倉期末期あたりから、石製で、神社に置かれ、
さらに実在の動物よりもナイスクリーチャー色が強いものになって来て、
江戸期辺りに入ると、日本の狛犬も明らかにシーサーと同じ中国南部系になってしまいます。
この辺り、日本の狛犬文化到来は厳密には二度あって、最初は平安期に北の朝鮮半島から、
次に鎌倉以降に南の中国寧波辺りから入って来たんじゃないかなあ、と個人的に思ってるんですが確証は無し。
ちなみに東大寺南門の狛犬、鎌倉時代初期に中国から入って来たと言われている狛犬が
明らかにナイスクリーチャー爆誕モードなので、おそらくこの時期、1190年代ごろに
日本への狛犬再降臨イベントがあったんじゃないかと、思うんですけどね。
ただし自分で調べるだけの気力も無いので、この話はここまで。
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