■沖縄の空で
ここで再度、沖縄の地図を。
前回のとは微妙に内容が違うのは、第二次大戦時の米軍上陸後の動きを入れたから。
はい、予想していた方もいると思いますが、今回はそういった面にも触れて行く旅行記となります。
飛行機は間もなく沖縄本島北部へ。
手前が本部半島、すなわち先端部に美ら海水族館がある辺り、奥が伊江島です。
第二次大戦時、日本の守備部隊は那覇〜首里を主軸に南部にその防衛の主力を置いたため、
1945年4月1日の米軍上陸から、占領まで主に島の南部で2カ月以上の死闘が続きました。
が、北部は手薄だったため、読谷付近に上陸した米軍は、4月3日ごろから北上を開始、
わずか5日後の4月8日には一気に40qも北上、この一帯に到達します。
これは南部戦線の数倍の速度で、いかに北部が手薄だったかが判る数字です。
(そもそも上陸直後の北上は計画に無かったが、あまりに手薄なので取ってしまう事にした)
そして山がちな北部の中で唯一、飛行場に適してると見られた平坦な伊江島に、
アメリカ軍は第10軍配下の一個師団、第77師団を投入してきました。
(ただし一部の連隊を欠いていたが)
これは本島上陸には使用されず、慶良間など周辺諸島の占領に投入されていた部隊で、
この伊江島に投入されるまでにすでに多くの上陸、実戦経験を積んでいた事になります。
当然、ここもあっさり占領されるかと思いきや、4月16日に上陸作戦が開始されると、
この島では日本側が頑強に抵抗、ここで沖縄戦を通じても最大級の激戦が展開される事になるのです。
(ちなみに日本軍の飛行場もあったが米軍上陸前に放棄されていた。
ただしなぜか多数の特攻機 桜花の部品を後に米軍が発見している。
余談だが、上陸直後の嘉手納でも米軍はこれを発見、回収した)
伊江島の場合、アメリカ側の事前攻撃によって船舶が被害を受け、島民が島に閉じ込められる形なった事、
同じく飛行場の建設部隊が取り残されてしまった事で、
本来ここに配備されていた独立混成第44旅団から来た井川大隊約600名と合わせ、
数千名の兵員が待ち構える事になっていたのです。
また航空基地にあった高射砲などがそのまま残されたため、火力も一定のモノがありました。
この結果、沖縄戦の中でも最も凄惨な、そして北部における最大の激戦地となったのがこの島です。
日本軍はほぼ玉砕してしまってるため、その資料の多くはアメリカ側に頼らざるを得ないのですが、
沖縄戦を象徴する戦場の一つでしょう。
ただし取り残された民間人も多く、アメリカ側の報告を見ても、戦死者の多くに民間人が含まれると述べられていて、
その凄惨さは想像するのも難しい、という部分があります。
ちなみに沖縄戦を通じ、日本側は驚くほど多くのアメリカ側戦車に損失を与えています。
これは日本側の対戦車装備の貧弱さを考えると驚くべきことなのですが、
なにせ日本側の戦闘員はほぼ戦死してしまってるため、未だにこの理由がよく判りません。
おそらく新型の一式47o速射砲が配備されていたはずですが、
それでも所詮は47oで、1945年の対戦車砲としてはドイツの88o、ソ連の57oなどに比べるとその破壊力は貧弱でした。
アメリカ相手なら、比較的装甲が弱いシャーマンなのでなんとかなったのかとも思いますが、
詳細はよくわかりませぬ。
が、事実としてアメリカ陸軍は沖縄の戦闘に投入した戦車の半分近くを損傷し、
1/4近くを完全撃破されて損失しています。
海兵隊のデータが無いのですが、少なくとも陸軍だけで約400輌のシャーマン(火炎放射戦車含む)を持ち込み、
この内、221輌が損傷(casualties)、その内94輌(約42.5%)が完全撃破(completely
destroyed)されています。
損傷率は実に57%で、これは戦車部隊はほぼ壊滅状態と言っていい状態なのです。
損傷の内訳は、地雷(おそらく爆薬を抱えた自殺攻撃を含む)が64輌、砲撃によるものが111輌、
原因不明が8輌、その他、泥道にはまるなどの事故損失が38輌。
ちなみに事故損失の内、25輌(約65.7%)は回収に失敗して日本軍に破壊されてるので、
これもほぼ戦闘損失に近いでしょう。
(数字は陸軍歴史部(US army Historical Division)のOKINAWA:THE LAST
BATTLE 1948発行版による)
この傾向は伊江島の戦いでも見られており、
この戦闘で第77師団は60両近い戦車(Medium
tanksなので恐らくシャーマン)の損傷を出しています。
余談ですが、この沖縄線における戦車の損失の大きさに驚いたアメリカ軍は
当時の最新戦車、M26パーシング戦車の派遣を急遽決定、
まず12両前後を5月末にアメリカから送り出すのですが、結局、戦闘には間に合いませんでした。
爆薬を抱えて飛び込む自殺攻撃など、その悲惨さを考えると決して手放しでは褒められないのですが、
それでも、第二次大戦中、これだけの連合軍の戦車に被害を与えた戦場はここが最初で最後でしょう。
恐るべき戦いだった、と言えます。
というか、そこまでの出血を強いる戦いが日本軍に出来た、という事に個人的には驚きを覚えます。
沖縄の損失は圧倒的に日本軍が多いのですが、これは多くの兵が降伏せずに自害を選んだから、という部分も多く、
キチンと調べて行くと、完全に海も空もアメリカ軍に抑えられながら、地上で恐るべき戦いを展開しています。
この辺りは、もう少しきちんと調べられる必要があると思うのですが、現状、私の手には余ります。
ただし、この戦いは必要だったか、というと話はまた別で、この辺りはまたいずれ少し触れるかもしれません。
ちなみにピューリッツアー賞受賞記者であり、当時アメリカで最も売れっ子だったアーニー・パイル("Ernie" Pyle)が
前線取材中に狙撃されて死亡したのもこの伊江島です。
後に占領軍が東京の宝塚劇場を接収、アーニー・パイル劇場と名付けたのは彼にちなみます。
でもってその直後には着陸のため雲海の中に突っ込む。
あれま、現地の天気はイマイチかな、と思ったんですが…
雲の下に出ると、意外に明るい。
中央付近、白っぽい都市部が那覇ですね。
さすがジェット機、もう沖縄南部上空に入ってしまってます。
ちなみに画面左、進行方向側が南になります。
画面右上に那覇港に入ってる大型クルーズ船が見えてます。
沖縄はクルーズ船の寄港が多い、という特徴もあると聞いてましたが、なるほどと思う。
手前に見えてる橋梁は恐らく高速道路、沖縄自動車道でしょう。
飛行機はそのまま沖縄南端を目指します。
どうやらそこで180度ターンして北上、南から那覇空港に着陸するようです。
これは陸地を避けてる、というよりアメリカ軍の飛行地域を避けてるためだと思われます。
画面右に見えてるのは奥武島。
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