■琉球王朝の城
沖縄は14世紀初頭、1322年ごろに大きく三つの王国、北山、中山、南山が成立、
以後、それぞれが割拠する形となりました。
ところが1406年ごろ、中山王国でク―デターが発生、尚(しょう)一族が国を乗っ取ってしまいます。
その勢いに乗った尚王率いる中山王国が1416年に北山を、
1429年に南山を次々と征服、沖縄本島を統一する事に成功したのでした。
尚一族がクーデターに成功した1406年にその居城として定めたのがこの首里城で、
以後、沖縄統一後も琉球王朝の王宮とされ、明治になって廃藩置県が行われるまで使われ続けます。
首里城そのものは、さらに以前からあったようで、その設立年ははっきりしません。
そして王宮となった後も、何度も破壊や火災に見舞われ、
最終的に第二次世界大戦の戦果で失われた王宮は18世紀、1715年ごろに再建されたものでした。
実は沖縄戦の時、首里城周辺で激戦と呼べるような戦闘があったわけではありません。
首里の東の与那原〜我謝〜桃原周辺、いわゆるコニカルヒルの戦いがこの地域では最大の戦闘で、
以後は散発的な戦闘の中で日本軍は南へと撤退してしまうのです。
ただし沖縄守備を担当する第32軍が首里城の地下に壕を造り本拠地を置いていたため、
アメリカ軍の砲火と爆撃で徹底的にたたかれ、首里城は事実上、廃墟となってしまいます。
■アメリカ陸軍編纂 OKINAWATHE LAST
BATTLE より
意外な事に沖縄戦の当初、首里周辺は空爆、艦砲射撃の対象になっておらず、
米軍上陸後、3週間近く経った1945年4月28日の段階でも、上の写真のようにほとんど無傷で残っていました。
これが徹底的な爆撃と艦砲射撃で完膚なきまでに破壊されるのは5月に入ってからで、
首里の東、コニカルヒル周辺での死闘が終結に向かいつつあった5月23日の段階では
その周辺も含めて完全に廃墟となってしまいます。
ただし、最終的にアメリカ軍の地上部隊が首里城に到達したときは、
すでに第32軍司令部は5月27日の段階で沖縄南部に撤収済みで、
首里城周辺では戦闘らしい戦闘は起こらなかったのです。
ちなみに完全な焼け野原に見えますが、写真の奥に見えてる首里城の地下では
まだ第32軍の本部は健在で、この4日後に沖縄南部に向けて脱出する事になります。
出典:国土地理院ウェブサイト *必要な部分をトリミングして使用
その後、1945年12月に空中撮影された首里城周辺。
完全な焼け野原、城跡も何一つ残っていない状況です。
第32軍が撤退後、ここに入ったアメリカ軍の報告を見ても何一つ残ってない、石垣すら破壊されてる、
と述べられており首里城は完全に灰燼に帰した、と見るべきでしょう。
なので戦後は単なる広大な空き地と見なされ、ここに沖縄最初の大学、琉球大学が1950年に設立される事になります。
ちなみに戦前の沖縄には大学はもちろん、旧制高校すらない状況でしたから、
これはアメリカ占領による恩恵、と言えなくもないものでした。
アメリカ統治時代、1970年の同地の空中写真。これが城跡、と言われても想像する事すら困難でしょう。
建物は全て琉球大学のモノ。大学が建てられた、という事は首里城の土地は尚一族の皆さんの土地ではなく、
廃藩置県後は公有地になってたんでしょうかね。
でも何で沖縄大学ではなく琉球大学なんだろう、と考えると、いろいろ考えさせられますが、まあ、いいか。
ちなみに沖縄における琉球大学の影響力は、今でも相当なものがあるようです。
その後、日本への復帰を境に首里城の再建運動が動き出し、1984年までに琉球大学の移転が完了、
1990年代から明治維新時代まで残っていた状態を目指して首里城の再建が始まりました。
2018年の段階でも一部で工事が続いてましたが、間もなく完成するようです。
写真は2010年ものですが、上の琉球大学時代のものと比べると同じ場所とは思えない変貌ぶりです。
なので現在の首里城は全て復元で、これは石垣ですら例外ではなく、ほぼ全てがレプリカなのです。
よって残念ながら資料性はほとんどなく、観光施設と割り切って見学するのが吉でしょう。
もちろん、多くの資料を参照し、専門家の皆さんも参加しての再現なので
昭和の経済成長期に各地で建てられた、適当な鉄筋コンクリート製天守閣と比べればはるかにマシなモノなんですが、
それでも限度はあり、そもそも宮殿全ての屋根瓦の色が全て間違ってたりします。
(沖縄式にオレンジで再現してしまったが実際は中国式に黒い屋根瓦だった)
といった辺りを知っていただいた上で、次回、その見学に入りましょう。
今回の本編はこれまで。
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