■当然山城である



さて、その廃墟の反対側が中城城の正門なんですが…こちらもほぼ廃墟では(笑)?
とりあえず下の岩盤の上に石垣が乗っかっていますが、かなり荒れてます。
ただし、この後見学を続けると東に行くほど、つまり出口に近付くほど整備、再現が進んでおり、
この一帯もいずれ、キレイに整備されるのかもしれません。

ちなみに沖縄戦の上陸翌日、4月2日には早くもアメリカ軍はこの一帯まで進出してました。
でもってアメリカ軍が来た時にはすでに日本軍は撤退済みで、、よって戦場になってないはずです。
城内にあった江戸期に建てられ、明治に入っても村役場として使われていた建物が焼かれたようですが。
空撮写真で見る限り、爆撃も艦砲射撃は受けてないので(なぜ海から見えるこの高地を狙わなかったのか謎だが)、
おそらく沖縄のグスクの中でも、もっとも保存状態がいいものだと思われます。



入り口横に会ったガマ。
沖縄のガマは石灰石の中に出来た洞窟の事で、沖縄戦ではガマの中に日本軍が立てこもったり、
住民が避難中に犠牲になったりと、いろいろ辛い歴史を持つモノなんですが、
こんな浅いただの穴もガマって呼ぶんですね。

かつてはここに鍛冶工房があったそうですが、なんでこんな城壁の下に?というのはよく判らず。
この周辺の平地には武家屋敷街とかがあったんでしょうか。

ちなみにこの周辺から直径2.5p、73gの金属玉が出土したそうで、
琉球王朝(中山国)には火矢があったと想像されてるそうな。
火矢ってのは棒の先に金属の筒を付けて火薬で弾を発射するもので、
「もののけ姫」でイノシシ軍団とオオカミ兄弟がエボシ様一行から散々くらってたアレです。

…その技術とこの築城術があったなら、この時代に薩摩が進入して来たら楽勝で撃退できたでしょうに。
その後の時代、九州征伐と朝鮮出兵と関ヶ原で実戦経験積みまくった薩摩相手では、
もうどうしようも無かったんでしょうか。



その横にあるこの荒れた道が城の正門へつながります。
行って見ましょうか。



そこから見えた石垣。

このお城は護佐丸君がゼロから建築したものでは無く、もとからあった城を彼がより堅牢に建て直したものだとか。
でもって裏口に位置するこの辺りが、もっとも古くからある部分らしいです。

写真は南の郭と呼ばれる聖域と祈祷所のある場所。
この奥に最初の城郭、本丸とも言える一の郭があります。



その石垣。
四角い石を丁寧に面合わせして、キッチリと隙間なく積み上げる方法で組まれてます。
これは、布積み、豆腐積み、といった呼び方がされるそうな。
ほんとに沖縄の石組はスゴイな、と思う。

ちなみに下に見えてるのは昭和19年ごろ、日本陸軍がここに防空壕を造ろうとして開けた穴。
が、上の写真を見ればサルでも判るように、この下も強固な岩盤ですから果たせず、
中途半端に穴を開けただけで終わってます。

ついでに見学コースからは外れてますが、同じよう事を他の場所でもやっており、
やっぱり戦争なんてやるものじゃないなあ、と思う。


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