■座喜味城突入



そこからは整備された遊歩道で城跡に向います。

座喜味城は築城家として名高いの護佐丸が自ら建てて本拠地にしていた
グスク、すなわち沖縄式の城でした。
彼は後にもっと南東の地(首里に近い場所)に中城(なかぐすく)城を建てて
以後そちらに移るのですが、この城も後ほど偶然見学する事になります。

ちなみに護佐丸さんは、琉球王朝(中山王国)の沖縄統一に大きく貢献しながら
最後は謀反を疑われて殺されたという一種の悲劇の主人公なのだとか。
(ただし諸説あって、実際に謀反を企てていた説もあるそうな)

ついでに沖縄の武士、士族階級は「按司(アジ)」と呼ばれ、
護佐丸さんもその一人でした。




間もな座喜味城のく最初の城壁が見えて来ます。
思ったより大規模で、あ、これスゴイかも、と思う。
後ほど確認したところ、だいたい100m四方ほどの大きさがありました。
ちなみに私は山城を見るのは初めてで、ちょっと興奮。

ただし戦中に日本軍が砲台を築いていたため、城塞の北西側(写真の向かって左)は
沖縄戦時に米軍の艦砲射撃で破壊されてしまいました。
(当時の航空写真で確認すると弾着痕が密集してるので単発機しか投入されなかった爆撃では無い。
ついでに周辺に弾痕はほとんど無いのでかなり正確に狙い撃ちされてる)
さらに戦後、米軍が読谷基地の一部としてここにレーダーサイトを築いてしまったようで、
このためこの南側以外は一度ほとんど破壊され、1980年代以降に再建されたものとなっています。

参考までに1977年、まだ米軍管轄下にあった座喜味城(右)と1993年、返還後整備された座喜味城(左)を、
例の国土地理院の航空写真で並べて見ると、こんな状態です。

出典:国土地理院ウェブサイト *必要な部分をトリミングして使用



北西部はそもそも戦時中の砲撃で破壊されていたのですが、
後に北東部も破壊されてしまったのが見て取れます。
この城の北側に米軍は一時、レーダーサイトを築いていたようです。

残念ながら建設時の遺構としては南部のみがそれを維持してる、というのが現実のようです。
それでも見に行く価値はある建物でしたけど。

…やはり戦争なんてやるもんじゃないよな、とつくづく思います。



城の入り口はこのアーチ型の門ただ一つで、
こりゃ堅牢だけど引っ越しは大変だな、と思う。
アーチ型の門なので頂点に左右からの力を受けてこれを支える楔石(Key stone)があるのですが
文字通り楔型の小さい石が一つ、ここに挟まれている、というあまり他で見かけない構造でした。
ちなみにあまりに小さいので、写真では見えてません…

ここの案内板だと楔石を使ったアーチ構造は沖縄では珍しい、とされてます。
アーチ門そのものはこの後で見学する中城城にもあったのですが、
確かに楔石を使わずに単純に左右から二枚の屋根石を繋いだものでした。
…よくよく考えると、そっちの方がスゴイ気がするな。

ついでに沖縄の城塞については琉球大学の工学部名誉教授、
上間(ウエマ) 清さんが30代の若いころ(1976年)に書かれた興味深い論文、
「沖縄の城 - その石塁構造」があるので、興味のある方は一読をお勧めします。



中に入る。
左が最初の城壁で、右が上段、二段目の城壁です。
日本の城のように中に盛り土をして石垣(土台)とするのではなく、純粋に城壁になっています。
微妙に中国っぽいですね。もっとも私、中国の城塞は清時代以降の蘇州しか知りませんし、
中国の「城」は城壁に囲まれた都市の事になるので、そういった意味ではここは単なる砦に近いのでしょうけど。

ただし沖縄のグスクは本土の城塞とは異なり、本来は集落とその聖域を守るために築かれた、
という話もあるので、本土の城よりは中国の城に近いかもしれません。
が、現存するグスクの多くは丘陵部の頂上にあり、水場も困ったでしょうし、
村落があったとは思い難いので、これは純粋な城塞のような気がします。

ちなみにグスクは沖縄中南部に集中、北部にはかなり少ないらしいので、
沖縄本島でも南北で文化的な違いはけっこうあったのかもしれません。



中には何も遺構が残って無いのですが、かえって広々とした印象を受け、なんかスゴイな、と思う。
個人的にはマカオのポルトガル要塞をちょっと思い出しました。
あっちはもっと新しいので、ぜんぜん時代が違うのですけどね。
沖縄のグスクの特徴として、直線の城壁が少ない、空堀はほとんどない、といったものがあるそうな。

余談ですが、大正期に沖縄の城を見た陸軍の熊本第六師団参謀長の藤津大佐も、
これはフランス式城塞に似てる、
という評価を下しており(彼が見たのは同じ護佐丸の造った中城城の方だが)、
ああ同じような事考える人がいたのか、と思いました。

ちなみに藤津さんは琉球の貿易の関係で大航海時代のポルトガルの影響があったのでは、
としてますが、さすがに1400年代初頭にそれほどの知識を持ったポルトガル人が
東アジアに来ていたとは考えにくい気がします。
(連中がマカオに拠点を築いたのが1550年ごろ、100年以上後だ。
ちなみにすぐ目の前の台湾までオランダ人がやって来るのはさらに60年後)



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